日々の雑学 ●●●
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「柳生家」という家について
2013年06月17日(月) 23:25
藤沢周平の時代小説を読み返しているのだが、「決闘の辻」という作品がある。


決闘の辻―藤沢版新剣客伝 (講談社文庫)決闘の辻―藤沢版新剣客伝 (講談社文庫)
(1988/11)
藤沢 周平

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連作短編なのだが、戦国末期から江戸初期に現れた、宮本武蔵、神子上典膳(=小野次郎右衛門忠明)とその師・伊東一刀斎、柳生宗矩、諸岡一羽斎、愛洲移香斎などの剣豪を主人公としている。

現代にも伝わる剣術の諸派の創始者たちが、この時代に一気に群れ出た。

それぞれに数奇な物語を持っているのだが、柳生宗矩は中でも大名になるという異例の道を辿っている。
先日、大岡忠相が官僚としての役目の功績で大名となったただ一人の人物だ、と書いたが、剣豪が大名になったのも、柳生宗矩ただ一人である。

柳生一族の話は虚実取り混ぜて、これまでも数々の歴史小説、時代劇に描かれて来ている。

一度、柳生家という特異な家のありようを整理してみたい。

柳生家がなぜ特異かというと、剣術という家の芸を拠り所にしつつ、徳川譜代の家臣となって官僚としても登用され、しかも先祖伝来の「柳生の庄」を幕末まで所領とし続けた点だろう。

柳生石舟斎宗厳(むねよし)は上泉伊勢守信綱に新陰流を伝授され、新陰流の継承者となる。
この頃の大和の柳生の庄は、松永久秀と筒井順慶との勢力争いの中にあり、柳生宗厳は、松永について筒井と戦ったり、筒井について松永と戦ったり、当時の戦国時代の小豪族の典型のような処世を強いられていた。

織田信長の大和入国に当たっては案内もしているが、松永配下としての戦いで拳を矢で射抜かれたり、また別の戦の帰路、落馬事故もあって、障害を負う身になる。
新陰流の後継者として嘱望していた長男の柳生厳勝も戦で重傷を負い、剣士として道を諦めざるを得なくなる。

織田信長家臣としての松永久秀に従っている形の柳生家だったが、松永久秀が信長に謀反を起こすと、松永家の支配から離れ、替わって大和を支配した筒井順慶とも距離を置き、政権争いから離れて、柳生の庄に隠棲するような形となる。

本能寺、山崎の合戦を経て、天下の支配者が豊臣秀吉になると明智一味と見なされた筒井順慶に替わって、秀吉の弟・羽柴秀長が大和の支配者となり、太閤検地が実施される。
この太閤検地で、柳生の庄に「隠し田」があることが露見し、柳生の庄を没収され、浪人の身となる。

近江前久に寄食して過ごしたようだが、やがてまだ天下を取る前の徳川家康に呼び出され剣技を披露する。
家康から剣術指南役として出仕するよう求められるが、老齢を理由に固辞し、代わりに五男の柳生宗矩を推挙、柳生宗矩は200石で徳川の臣となる。

ここから大和の地方豪族であった柳生家が徳川の臣となっていく岐路になるのだが、依然として秀吉の時代であり、大和は徳川家康の支配下にはない。

関ヶ原の戦いが起こると、家康に従って小山にあった柳生宗矩は、急ぎ大和に向かって、かつての父の所領である柳生の庄を基点とし、周辺の豪族を糾合して、西軍の後方霍乱をするよう命じられる。
この功績を以って、大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。

さらに秀忠の剣術指南役を命じられ1000石加増、3000石の大身旗本となる。

大阪の陣でも秀忠の側近く仕え、戦陣でも活躍。

家光の剣術指南役となり、家光の信頼も得て、但馬守に任官し、3000石を加増され、幕府の初代大目付を任じられる。
これで6000石である。
この大目付としての功績が認められ、4000石を加増され、計1万石となって、ついに大名に列する。
剣術だけでなく、平時の幕府官僚としての実績も認められてのことである。

柳生家の人物は、石舟斎宗厳を筆頭に、その長男で戦で負傷してしまった柳生厳勝、厳勝の長男で朝鮮蔚山の戦いで戦死した久三郎純厳(すみよし)、厳勝の次男で世に出ずに祖父石舟斎の元で修行し続けた柳生兵庫助利厳(としよし)、石舟斎の四男で、宗矩のすぐ上の兄の柳生宗章、さらに、柳生宗矩本人、宗矩の長男・柳生十兵衛三厳(みつよし)、次男・左門友矩(とものり)、友矩と同年の異母弟・宗冬と、柳生家の子たちは、いずれも剣の腕は傑出したものがあった。
柳生宗冬は当初2人の兄と違って、体力が無く剣術よりも文学に興味があったと言われているが、後に剣の道に開眼し熟達している。
このうち、石舟斎の元で修行した柳生兵庫助利厳は後に尾張徳川家の剣術指南役となって、尾張柳生と言われる家の始祖となる。
柳生宗矩のすぐ上の兄、柳生宗章は、徳川家の召し出しを断り、小早川秀秋に仕え、小早川家改易の後は、米子の中村一氏の米子藩の客将となる。
しかし、米子藩で起きた内紛に巻き込まれ、恩義から一派に属して戦い、敵18名を倒したと伝えられ、壮絶な戦死を遂げている。

家光は次男の友矩を最も評価していた(美貌から家光と衆道の関係にあったとも言われている)ようだが、27歳の若さで友矩は病死する。
柳生友矩が単独で拝領していた遺料2000石は、父宗矩が合わせ持つことが許され、その前に加増されていた500石と合わせて、大和柳生藩は1万2500石となる。

藤沢周平の「決闘の辻」の柳生宗矩は、松永・筒井の狭間にあって、戦傷して存分に剣を振るえなくなって隠棲した父・石舟斎宗厳のこと、その嫡男で兄の柳生厳勝も戦陣で不具となったこと、さらにその厳勝の子で甥の柳生久三郎純厳は遥か朝鮮の蔚山で戦死したこと、客将として滞在していた米子で思わぬ内紛で壮絶な戦死を遂げた兄の柳生宗章のことなどを回想している。

そして、まだこの時点では、十兵衛三厳、左門友矩、又十郎宗冬の三人の子については、三厳、友矩がそれぞれ一長一短と思っており、宗冬は後継者としてはやや視野の外にある、というあたりが小説で取り上げられている時期にあたる。

結果、友矩は父より早く死に、柳生宗矩の遺領は、三厳に8300石、宗冬に4000石を分けて相続するよう命じられ、大名家だった、柳生家はいったん旗本に格下げになってしまう。

柳生三厳は世継ぎが無く死去、このような場合は問答無用で改易収公されるのが通例だが、異例の措置で柳生宗冬に兄の遺領8300石を継ぐことが許された、元々の自領の4000石は収公。
四代将軍家綱の兵法指南となり、大和に1700石を加増されて、計1万石となって、柳生藩は大名として復活。

  柳生永家
     ┃
     永珍(宗珍)
     ┃
     家重
     ┃
     道永
     ┣━━━┓
     家宗  秀政
     ┃    ┃
     光家  秀国
     ┃    ┃
     重永  秀友
     ┃
     家厳
     ┃
     宗厳
     ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
     厳勝   久斎   徳斎   宗章   宗矩
     ┣━━━┓    ┏━━━┳━━━╋━━━┓
     純厳   利厳   三厳   友矩   宗冬  列堂義仙
     ┏━━━╋━━━┓    ┏━━━┫
     清厳   利方   厳包   宗春   宗在
            ┃            ┃
           厳延         俊方
            ┃             ∥
           厳儔          俊平
     ┏━━━┫           ∥
     厳春   房吉         俊峯
     ┣━━━┳━━━┓     ∥
     厳教   厳之   厳政    俊則
    (尾張柳生家・以下略)    (大和柳生藩柳生家・以下略)

詳しくはWikiを見てください。

兄筋は柳生利厳に始まる尾張柳生家なので、尾張柳生家は「宗家」を主張しているが、宗厳の遺領を全て宗矩が継いでいることから、大名家となった柳生宗矩家の方を宗家と見なす見解が有力である。

柳生宗矩が父石舟斎宗厳を弔うために柳生の庄に建てた芳徳禅寺にある柳生宗矩木像
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芳徳寺は維新後は山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺なって荒廃していたが、末裔の元台湾銀行頭取の柳生一義氏が私財を投じて本堂を再建。
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大岡越前守忠相のこと
2013年06月10日(月) 23:54
民放での時代劇が全滅し、もうそういう時代ではなくなったかと思っている昨今だが、「大岡越前」がNHK-BSで復活して話題になっている。

テーマ音楽もTBS時代そのままに、加藤剛「大岡越前」の雰囲気をそのまま踏襲し、おおむね好評を得ているようだ。

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加藤剛がやっていた大岡越前を東山紀之、
竹脇無我がやっていた榊原伊織を勝村政信、
というキャスティングも、TBS時代の雰囲気を踏襲したキャスティングと言って良いだろう。

ドラマのことはここではさておき、史実の大岡越前守忠相のことについて書いてみたい。

大岡忠相という人は江戸徳川体勢を通じても、非常に特殊な人物だ。
身分と家格が厳格に固定されており、戦場での功績も挙げられないこの時代にあって、平時の役職の功績を認められて、旗本から大名に出世した、江戸時代通じて、ただ一人の人物なのだ。

大名とは1万石以上の領地を持つものを言い、1万石に満たなければ旗本である。

戦場での功績がなくなった家光以降の時代に、成り上がった大名というのは、他にもいるにはいるのだが、将軍の実母の縁者や、将軍の乳母の縁者、将軍の幼少時や世継ぎ時代に身の回りの世話をした側近、という縁故での成り上がった人物ばかりだ。

平和時の実際の役職の功績で、旗本から大名に取り上げられたのは、大岡忠相一人しかいないし、忠相の三河西大平藩しかない。

大岡忠相は1700石の旗本・大岡忠高の四男として生まれ、一族の旗本、1920石の旗本・大岡忠真の養子となる。

大岡家は、家康の祖父松平広忠の時代に大岡忠勝が仕えたことに始まり、その子大岡忠政には4人の男子、忠俊、忠行、忠世、忠吉があったが、長男の忠俊は関ヶ原で、次男の忠行は大坂の陣でそれぞれ戦死してしまう。
三男の忠世の長男忠種が宗家として忠行の家督を継ぎ、忠世自身、忠吉の3家が旗本として江戸時代に入る。

大岡忠相の生まれたのは、大岡忠吉家で、養子に入った家は大岡忠世家であり、大岡忠種家は継嗣なく絶えていたので、この時代には大岡忠世家が宗家となっていた。
つまり忠相は分家4男から大岡家本家を継いだ形になっている。

徳川綱吉の時代に御書院番として役につき、徒士頭、使番、目付となり、徳川家宣の時代に山田奉行に就任し能登守に叙任している。
この山田奉行時代に、伊勢宇治山田の幕府領と紀伊藩領との境界争いがあって、紀伊藩の関係者に名が知れ、紀伊藩の部屋住みだった徳川吉宗の耳にも、大岡忠相の名が知れたものと思われる。

徳川吉宗が8代将軍になると、1716年普請奉行を命ぜられ、さらに翌年1717年に江戸南町奉行に。

先任の江戸中町奉行に坪内定鑑(さだかね)がおり、坪内の名乗りが「能登守」であったために、先輩と重なる「能登守」を遠慮し「越前守」に改める。
坪内定鑑が能登守でなかったら、ドラマのタイトルは「大岡越前」ではなく「大岡能登」になっていたわけだ。

後は比較的有名な事跡だが、吉宗のいわゆる享保の改革のうち、江戸の都市政策の部分を担当し、目安箱の設置や、小石川養生所の設置などに尽力。

江戸町奉行としての功績を認められ、武蔵・上総のうちで2000石加増されて、3920石となる。

さらに、1736年、本来は大名が努める寺社奉行に就任し、さらに下野・上野のうちに2000石加増されて、5290石。
通例では、大名役である寺社奉行は奏者番を兼任するのだが、格式は「万石格」とされたものの、大名でなかった忠相は、奏者番は兼任していない。
このため、同役たちから軽んじられ、苦労したようだ。

1748年には、三河のうちに不足分の4080石を加増されて、都合一万石ジャストとなり、晴れて大名に列する。
藩庁の所在地は、最後に加増された三河のうちの西大平に定めたので、西大平藩となるが、大岡忠相自身は、西大平に入国することなく亡くなっている。

旗本が勤める奉行職で、特筆すべき功績を挙げた人物は江戸期を通じて何人もいるのだが、将軍に個人的な縁がない人者が、表の役職の功績で、大名に昇格したのは、後にも先にも大岡忠相一人きりである。

家康の関東入国にあたって、大岡家が最初にもらった領地は相模国高座郡のうち2村、今の茅ヶ崎市内であり、この領地はその後、武蔵、上総、下野、上野、三河と領地を加増されていくが、忠相以降の時代に付け替えられた領地もあるのだが、相模高座郡の領地は、幕末まで西大平藩大岡家の領地であり続けた。

1751年6月の吉宗の葬儀が最後の公務となり、このとき既に忠相自身体調が優れず、同年の11月に寺社奉行を辞して自宅療養したが、翌月の12月に亡くなっている。

そのため、大岡家の菩提寺は、高座郡堤村(現在の茅ヶ崎市堤)の窓月山浄見寺にあり、大岡忠相もそこに葬られている。

吉宗の子、9代将軍家重は、言語が不明瞭で、家重の小姓を勤めた大岡忠光だけが、家重の言葉を聞き取れた、というのは有名な話だが、大岡忠光の家は大岡忠吉家の300石の旗本。

将軍が幼い頃から近侍し、家重の言葉を唯一理解できたため、その側近として異例の出世を遂げて、1万石の大名に取り上げられ、若年寄も勤め、さらに5000石加増されて側用人となり、5000石加増され、計2万石となり、武蔵岩槻藩主となる。

大岡忠光が尋常ならざる出世をしていく過程を、実家が大岡忠吉家である親戚として忠相も途中までは見ている。
忠相が亡くなる1751年に、ちょうど大岡忠光は1万石を得て大名となっているのである。

結果的には宗家を石高では上回ることになった大岡忠光家だが、宗家は忠相の三河西大平藩の大岡家である。

大岡忠相没後すぐの頃から、虚実取り混ぜたいわゆる「大岡政談」は講釈の演目になり、幕末から明治頃には歌舞伎の演目になって定着。

良い施政者もいるという庶民の夢を託す形で、生前から比較的善政の施政者として名が売れていた大岡忠相に庶民の理想の施政者、正義の味方像を乗せていく形となっている。

記録に残る文書は、町奉行としての政務日記である『大岡忠相日記』がほとんど唯一のもので、そこには「大岡政談」の証拠となるような記述はないのだが、町火消しや、小石川養生所の設立など、わかりやすい事績があったので、もてはやされるようになったようだ。

茅ヶ崎市では、4月末に現在も大岡越前祭を行っており、大岡家の御当主は、オープンカーに乗ってパレードに加わる。

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