日々の雑学 ●●●
日々、ふと思ったことを書いていきます。   ・・・千葉ロッテ・マリーンズ、菅野よう子、再生可能エネルギー、自然環境、里山、棚田、谷津田、日本近世史、歴史小説、時代小説、クラシック音楽、・・・などなど。
ヴィック・ファースの訃報
2015年07月28日(火) 23:59
クラシック音楽家の訃報というのは、毎年毎年それなりのペースで接することで、自分もいい歳なので、亡くなる方も当然もっといい歳であることが多いものの、少なからずその度に残念でもあり、その度にショッキングである。

そういった中でも、エヴァレット"ヴィック"・ファース、Everett"Vic Firth氏の訃報は、自分の人生にとっても、一つ大きな時代の区切りが来た、ということを感じずにはいられない。

スティック、マレット・メーカーのブランド、「Vic Firth」にも、それしか選択肢がなかったという問題もあるにせよ、もちろんお世話になって来たけれども、私の世代のタイコ叩きにとっては、Vic Firthは文字通り「アイドル」だった。

ヴィック・ファースの音を聞くために、小澤征爾指揮のボストン交響楽団のファリャ三角帽子のレコードを買ったし、ボストン響の実演に行くのも、ヴィック・ファースはどう叩くだろうか、どういう音を出すだろうか、というのを見て聞きたくて、足を運んでいた。

彼の叩く姿勢、バチの跳ね上げ方、信じられないくらい伸びる音、会ってみるとアメリカ人にしては思いのほか小さい上背、握手すると本当にやわらかい手、そしていつどんな時でも心からの笑顔。
すべてがアイドルだった。

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私が学生だった1980年代から、その後少なくとも1990年代頃、日本の打楽器界は、プロ奏者の皆さんも音大の先生をされている方も、ほぼアメリカ式のティンパニ奏法の信奉者であったし、その教え子である我々も、疑うことなく(あるいは疑いつつも)アメリカ式奏法を伝授されていた。

ニューヨークフィルの首席奏者だったソウル・グッドマン、そしてティーンエイジでボストン交響楽団の首席奏者となったヴィック・ファース。
彼の会社の作る、マレットやスティックや教則本とともに、彼のアイドル像は絶大だった。
それに比べると、ドイツ・オーストリアのプレイヤーは、当時は情報が少なく、地味な印象があったのだ。

レコードの業界自体もアメリカのメジャー・オケに非常にチカラのあった時代だった。

今となっては、どちらが優れている、という論争は瑣末な問題なのだが。

間接直接、たくさんの思い出に感謝したいし、クリニックやボストン響での演奏にも感謝したい。
ボストン響での来日時、JPCでのクリニックの時、桐朋に客員で教えに来られていた頃、と3度ほど近くで接することが出来ただけの、一ファンの思い出にすぎないのだが、ヴィック・ファースというアイドルがいなければ、ここまでタイコに打ち込めたかどうかわからない気もしていて、直接の打楽器の師匠たちとは別の意味で、一方的ながら心の師であったのは確かだ。

85歳で膵臓癌での訃報ということで、十分長命だし、偉大な功績だし、十分十分なのだが、それでもそれでも、残念である。
ロリン・マゼールの訃報に接した時にも一つの時代が終わった感があったが、マゼールの訃報は傍観者としての感想だが、今回のヴィック・ファースの訃報は、自分の音楽人生にも「一つの時代の終わり」を感じるのである。

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たくさんの思い出をありがとうございます。
ご冥福をお祈りします。
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芥川也寸志生誕90年メモリアルコンサートでした
2015年05月31日(日) 23:37
今日は「芥川也寸志生誕90年メモリアルコンサート」でした。

行って良かった。
実に良い演奏会だった。

芥川作品の復活蘇演は、自分自身も相当やってきているのだが、今回のコンサートの演目がまたまた非常にすごい。

大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲そのものは、自分でも何度も演奏して来たが、テーマ曲以外の曲の譜面が見つかったとのことで、今回はいくつかの曲から組曲の形で披露された。

テレビ草創期に芥川也寸志が作った様々なテーマ音楽集、など意欲的なプログラミングだった。


Do Re Mi Fa Sol La Si Do (1978)

祝典組曲No.3 marcia in do (1959)

NHK大河ドラマ「赤穂浪士」組曲 (1964)
 メインテーマ
 赤穂
 不吉な予感
 刀傷
 暮れ六つ Canon
 討入り

映画「鬼畜」組曲 (1978)
 メインテーマ(ストリートオルガンによる)
 竹下印刷
 故意か偶然か
 利一と良子
 メインタイトル
 追憶の旅
 断崖
 人間と鬼畜の狭間
 エンディング

バレエ「KAPPA」組曲

<休憩>

NHK幻のテーマ音楽集
 Opening Ending for NHK Television (1953)
 日本の歩み (1950年頃と思われる)
 若い農民のテエマ (1950年前後と思われる)
 学校放送 小学校 ラジオ音楽教室テーマ (1953)
 家庭の音楽テエマ (1950年前後と思われる)
 メロディの流れ 3時半からの音楽 (1952)
 NHK教養大学テエマ (1950年前後と思われる)
 海外の話題テエマ (1952)

小管絃楽のための組曲 (1949)

映画「八つ墓村」組曲
 メインテーマ
 辰弥の回想~多治見家~400年前・落武者惨殺
 惨劇・32人殺し
 青い鬼火の淵
 呪われた血の終焉
 落武者のテーマ

映画「八甲田山」組曲
 メイン・タイトル
 徳島隊、銀山に向かう
 神田大尉の幻想
 谷底、「やむを得ん、登ろう」
 手紙
 凍死者でる
 青森湾だ
 つららの崖
 死せる神田大尉との対面
 終焉

<アンコール>
みつばちマーチ

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中でも、小管絃楽のための組曲 (1949)は、いかにも芥川テイストの曲で、これが舞台初演とのことだが、今後もレパートリーになっていくのではないか、というポテンシャルを感じる作品であった。

演奏やアレンジに不満がなかったわけではないのだけれども、西さんの企画力にはただただ感謝するしかない。

オーケストラ・トリプティークの編成とオリジナルの再現とのギャップは気になるところはあった。
きゅりあんのアコースティックも地方の多目的ホールの中の下レベルという感じで、あまり良い状態とは言えなかった。
特に気になったのは、打楽器奏者の人数だ。
もう一人居てくれたら、だいぶ良かったのに、と思う面多数。
スネアの刻みを途中で放り出して、最後の最後の一発だけ大太鼓叩く、とか、芥川也寸志のオーケストレーションにはあり得ないのだが、それがやたら多発していたのが、気になって仕方なかった。

劇伴というものは(打楽器は特に)重ね録りしていることも多く、ステージ実演との相違は仕方ないのだが、あと一歩どうにかならなかったか、という気はしている。
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新交響楽団第229回演奏会でした
2015年04月20日(月) 00:13
湯浅卓雄先生を指揮にお迎えして、
ショスタコーヴィチ:祝典序曲
橋本國彦:交響曲第2番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

橋本國彦の交響曲第2番は、1947年、日本国憲法の制定の記念曲として依頼作曲され、初演の場は新憲法発布の祝賀会でのことなので、誰でも聞ける会ではなかったはず、その後放送録音もされたらしい?、Naxosの日本人作品撰集の中の一つとして、湯浅先生の指揮する藝大フィルハーモニアが録音、という経緯はあるものの、本日の演奏が作曲後68年を経て、パブリックな場所・客前で初めて演奏されたことになる。

私は従前からの主張通り、過度な前衛への忌避感というか、音「楽」は聞いて楽しいものでないとならないし、悲劇的なテーマを扱うにしても、心を奪われるメロディや、ハーモニーというものは、何がしか必要なのではなかろうか、と思っている。
内外問わず「保守的作風」と一蹴され、まともに扱う価値のないものと処理されてきた作曲家たちを見出し、愛し、慈しむ傾向は私の中に抜きがたいものとして、あり続ける。

そんな私から見ても、それにしても、橋本の交響曲第2番は、ずいぶんと前時代的な牧歌的な曲ではある。
皇紀2600年奉祝曲として作られた交響曲第1番や、オーケストラ・ニッポニカによって蘇演された「交響的諧謔」などの方がチャレンジしている要素は多々みられ、橋本國彦の管弦楽曲としても、平明で清澄になっている。
湯浅先生の解釈によれば、戦争が終わって藝大の職からも開放され、2年後の1949年には44歳の若さで亡くなっている橋本國彦にすれば、何のしがらみもない、自分の書きたい音楽を素直に吐露した作品なのではないか、と忖度されていた。
あまりに平明な音楽にびっくりするかもしれないのだが、歌曲の人であった橋本國彦の美質は随所に発揮されており、68年間も放置されていて良い曲ではないだろう。

ショスタコーヴィチの交響曲第10番は、かつて小泉和裕先生のタクトで、演奏したことがあるのだが、あの頃は自分も若く、まだモノがわかっていなかったように思う。
この曲の背景を詮索することは、一度脇に置き、表題のない絶対音楽としてみた場合、ショスタコーヴィチの交響曲の中で(5番をも凌駕する)最もバランスの取れ作品なのではないか、と思われる。

「交響曲」というのは、本来、絶対音楽であるべきであろうし、表題なしに、何を表しているか、は、聴衆の感興に委ねられるべきものだと思っている。
ベートーヴェンの「田園」や、ドヴォルザークの「新世界より」、シューマンやメンデルスゾーンの交響曲にも多々あるけれども、作曲家自身が、表題や何らかの「音楽以外の示唆」を与えてしまっている作品は多く、それらが価値が低いというつもりはないけれども、後代の演奏者解釈や聴衆の想像力の余地を狭める効果があるのは確かだろう。
独唱や合唱による歌詞を持つ「交響曲」も違った意味で音楽の「絶対性」が損なわれる部分があるだろう。

文字や言葉など、音楽以外の示唆で、作品世界を補完することは、それはそれで意味があることで、非常に成功する例も多いのだが、「交響曲」とは何ぞや?と原理主義的に突き詰めて行くと、やはり音楽が音楽のみとして絶対的に存在している「絶対音楽」であって欲しい、と思うのである。

また、テーマ性や表題に頼ることなく、音楽のみで作品世界を構築する方が、難易度の高い作業のように思われるし、高貴な作業であるように思われるのだ。

テキストの劇性と深く結びついたワーグナーなどの音楽的深遠性、表題音楽の権化であるリヒャルト・シュトラウスやプッチーニのオペラの劇性を否定するつもりはないし、自分も大好きなのだけれども、音楽はまず「音楽」であるべきだろうし、受け手の感受性によって、如何様にも味わえる作品の価値は、もっと大切にされなければならない、と感じている。

そういう意味での絶対音楽として、20世紀の最も成功した例が、ショスタコーヴィチの交響曲第10番ではなかろうか、という思いを感じながらのシーズンであった。

今後、どれだけ良い音楽と巡り会えるかわからないが、若い頃にはわからなかったものがわかるというのも良いことのように思う。

そして、次回の曲の中のダフニスとクロエ第2組曲という曲は、私が18歳の時に、生まれて初めてオーケストラの中で音を発した曲であり、若い頃にはわからなかったものがどれだけわかるのか、興味深く臨みたい。

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早稲田大学交響楽団第197回定期演奏会でした
2015年03月22日(日) 23:51
第14回海外公演「ヨーロッパツアー2015」の東京公演でもある、第197回定期演奏会、年度の締めの演奏会、聴きに行ってきました。
サントリーホール。

R.シュトラウス / 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
R.シュトラウス / 交響詩「ドン・ファン」
ダヴィッド / トロンボーンと管弦楽のための小協奏曲
トロンボーン独奏:水出 和宏 (同楽団首席トロンボーン奏者)
モーツァルト / 交響曲第41番

アンコール
校歌
R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」より、7つのヴェイルの踊り

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リヒャルト・シュトラウスの各曲は、いずれも手慣れて来ていて、自家薬籠中の音楽になっていた。
ダヴィッドの伴奏オーケストラの成長ぶりも見違えるよう。
モーツァルトは・・・?

それにしても、アンコールの「サロメ」の7つのヴェイルの踊りが圧巻であった。

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ショスタコ自身が連弾で弾く交響曲第10番
2015年03月16日(月) 23:19
ちょっと必要があって、ショスタコーヴィチ自作自演集のLPレコードを棚から引っ張りだした。

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このLPレコードは2枚組で、1枚めに、ピアノ協奏曲第1番、第2番がショスタコーヴィチ自身のピアノ独奏で収められ、さらにちょっとレアな作品である、「2台のピアノとオーケストラのためのコンチェルティーノ」を息子のマキシムと自分がピアノを弾いている。
2枚目が交響曲第10番の連弾、表面に第1楽章、ひっくり返して裏面に2、3、4楽章が収められている。
これは、弟子の作曲家モイセイ・ヴァインベルク(出生名はポーランド名のミェチスワフ・ヴァインベルク)と一緒に弾いている。

ミェチスワフ・ヴァインベルクについいては、彼自身の作品も面白いし、ヴァインベルクは批判されただけではなく、1953年2月に逮捕されていて、スターリンの死によって救われ、名誉回復されている。
恩人であるショスタコーヴィチの第10番、スターリンとその死との関係云々されるこの曲をどういう気持ちで弾いていたのか、を忖度するのは、興味が付きないことである。

ショスタコーヴィチは作曲家が自作を指揮することを「はしたない」こと「滑稽な」ことと、捉えていた節があって、自身も絶対に指揮しなかっただけでなく、同時代のリヒャルト・シュトラウスやブリテンや、ハチャトゥリアン、プロコフィエフなどがしばしば自作を指揮することも快く思っていなかった。

そういうわけで、作曲家自身の録音というのは、ピアノ協奏曲と室内楽のピアノパート、ピアノ曲しかなく、交響作品に関して作曲家本人の演奏というのが記録として残っているのは、この交響曲第10番の連弾による録音が唯一のものなのではなかろうか。

どういうテンポなのか、ディナミークなのか、フレージングなのか、という問題もあるのだが、連弾による演奏なので、どの音を拾い、どの音は捨てているのか、長い持続音が出せないピアノという楽器の特性上、そこをどのように弾いているか、(数小節に渡る持続音はトレモロにしているところもある)、といったあたりも聞きどころだ。

この時代のメロディヤの録音のクオリティは独特のものだけれども、それでも、やはり貴重な歴史的記録と言えるだろう。

今日の朝日新聞の夕刊にアナログ・レコード復権の記事が出ていたこともあり、針を落としてみた
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清水真弓トロンボーン・リサイタルでした。
2015年01月31日(土) 23:56
今日は、青葉台フィリアホールで、南西ドイツ放送交響楽団首席トロンボーン奏者である、清水真弓さんのリサイタルでした。

前回、紀尾井ホールでのリサイタルの時と比べるのも意味がないくらいに、いろいろな意味でスケールの大きなアーティストになっていたように思う。

アレンジ物を一切排したところも点もプラスだと思うが、トロンボーン「でも」こんなに吹けます、というような、技自慢が前面に出てくる場面は一切ないにも関わらず、トロンボーンという楽器のあやゆるチャームポイントを余すところなく伝える演奏会になっていた。

清水真弓自身のトロンボーンの演奏が素晴らしく成長していることは、もはや改めて書くまでもない、書く意味もない感じ。

何よりステージでの振る舞い、MCぶり、カウントを取るちょっとした仕草などなど、スケールの大きな演奏家になったなあ、という感慨ひとしお。
前のリサイタルの時には、「年齢的な色気が出て来た」というような所管を書いた気がするが、そういう意味では今回は「人間的魅力」に惹きつけられる感じがあったかもしれない。

まずもって、選曲とプログラミングが素晴らしく、プロデュース力の並々ならぬ飛躍を感じた。

聴いたことのある曲は、ヒンデミットのソナタだけなのだが、その他の曲も委嘱新作も含め、モダーンで、クールな曲でありながら、聴衆を楽しませるエンターテインメントである点をはずさない。
はじめて聴いた曲ばかりというお客さんがほとんどだったと思うけれども、どれも素晴らしい曲であったし、演奏であった。

繰り返しになるが、「トロンボーンにしては頑張っている」という楽器のテクニカルな不自由さを聴衆に意識させる場面は一切なく、トロンボーンにしか出来ない表現、チャームポイントを目一杯楽しませてもらった。

フランソワ・キリアンのピアノがリサイタル全体を通じて素晴らしかった。

ゲストのトランペット、ルカス・ゴットシャックも好演。

リチャード・ピースリー:アロウズ・オブ・タイム (トロンボーン&ピアノ)
ジョルジュ・エネスク:レジェンド (トランペット&ピアノ)
ジローラモ・フレスコバルディ:カンツォーナ第3番 (サックバット&オルガン)
ジョヴァンニ・リッチオ:カンツォーナ「ラ・フィネッタ」、ダリオ・カステロ:ソナタ第4番、ジョヴァンニ・リッチオ:カンツォーナ「ラ・ピッキ 」(バロック・ヴァイオリン&サックバット&オルガン)
パウル・ヒンデミット:トロンボーン・ソナタ (トロンボーン&ピアノ)

石川千晶:「Spieilräume」(委嘱作品、世界初演) (トロンボーン&ピアノ)
フランシス・プーランク:インプロヴィゼーション第15番 (ピアノ・ソロ)
エンリケ・クレスポ:トロンボーン独奏のためのインプロヴィゼーション第1番 (トロンボーン・ソロ)
アート・テイタム:タイガー・ラグ (ピアノ・ソロ)
ジャン・フランソワ・ミッシェル:目覚め (トランペット&トロンボーン&ピアノ)

アンコールは把握し切れず。

どれを取っても魅力的な作品だった。

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サイン会も大賑わいでした。
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新交響楽団第228回演奏会でした
2015年01月26日(月) 00:04
山下一史先生をお迎えして、

ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」より抜粋
サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」

というプログラム。

白鳥の湖も、新交響楽団では、なかなか取り上げることがなかった曲なのだが、やはりやって良かった感が強い。
もう少し入れたい曲もあったけれども、フィナーレが演奏出来たので、やはり組曲版をやるのとは、ずいぶん違う。

今回の演奏会に関しては、山下先生の練習での音楽作りに感銘を受ける場面が多かった。
単純で漫然となってしまう部分にどういう風に工夫を凝らすか、というあたり、楽譜を再現する先にある「音楽作り」、もちろん他の指揮者の方も、やっていただいているのだが、「こういう風にしましょう」、と示唆していただけるあたりが非常にわかりやすかった。

今回の「白鳥の湖」は、長くクラシック音楽やってて本当に良かった、という感じがしている。

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次回は、なかなかちょっと、どのように聴かせる演奏が出来るか、むずかしいプログラムなので、これはまたこれで、取り組み甲斐がある。
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早稲田大学交響楽団 冬季演奏会でした
2014年12月10日(水) 23:59
早稲田大学交響楽団の冬季演奏会を聴いて来た。

指揮は寺岡清高さん

R.シュトラウス / 交響詩「ドン・ファン」
R.シュトラウス / 楽劇「薔薇の騎士」よりワルツ
R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」より7つのヴェイルの踊り
ウェーバー / 歌劇「オイリアンテ」序曲
ダヴィッド / トロンボーンと管弦楽のための小協奏曲 変ホ長調 作品4
トロンボーン:水出 和宏(早稲田大学交響楽団首席トロンボーン奏者)
石井眞木 / 日本太鼓とオーケストラのための「モノ・プリズム」
和太鼓 林英哲&英哲風雲の会

前半のリヒャルト・シュトラウス3曲は、大きな傷はなかったものの、ここ数年リヒャルトの曲を演奏し続けて来たオケとしては、もうちょっと深みある演奏を期待したかったところ。



トロンボーン協奏曲、独奏の首席奏者、水出和宏くんは実に立派だった。

トロンボーンのスライドワークやブレスの都合が一切表面に出ない、音楽的な表現。
トロンボーンの力強さを出しつつも、終始流麗で美しい音で吹き切っていた。

来春のヨーロッパ演奏旅行にも、このトロンボーン協奏曲を持って行くようなので、ヨーロッパでの反応も楽しみになる演奏だった。

石井眞木さんの「モノプリズム」は、初演時の鬼太鼓座のメンバーでもあった、林英哲さんと、彼が率いる英哲風雲の会を迎えて。

和太鼓群は素晴らしかったのだけれども、Tuttiの部分も終始音量が大き過ぎ、オケの音がほとんど聞こえず、特に終結部に向かう部分、眞木さんがいろいろと意図して書いた、オケの響きが完全にマスクされてしまっていたのは、残念だった。

オケとしては、どうしようもない部分もあるのだが、演奏旅行までにどのように調整して来るのか。

来年、2月の演奏会でも、トロンボーン協奏曲とモノプリズムは演奏するので、期待したい。




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ブリテンのピアノ協奏曲
2014年11月19日(水) 23:58
ベンジャミン・ブリテンは、もっと評価されても良い作曲家だと思っている。

ショスタコーヴィチと並ぶ、20世紀を代表する作曲家ではないだろうか?

「青少年のための管弦楽入門」はレパートリーになっているけれども、他人の作った主題の変奏曲であることも含め、作品の性質が特殊な曲だ。

「シンアフォニア・ダ・レクイエム」
「シンプル・シンフォニー」
「戦争レクイエム」
オペラの数々ももっと演目に掛けられて良いと思うのだが、「ピーター・グライムズ」の中からの「4つの海の前奏曲」
あたりは市民権を得ているだろうか。

管弦楽曲の他にも「パートナー」であった、ピーター・ピアーズのために書かれた歌曲を始めとする歌曲、デニス・ブレインのために書かれたホルンのための曲、ロストロポーヴィチとの出会いに触発されたチェロ曲も見過ごしにはできない。

先日、東京都交響楽団が、
10月20日に、
ヴォーン・ウィリアムズ:ノーフォーク狂詩曲第1番 ホ短調
ブリテン:ピアノ協奏曲 op.13(1945年改訂版)
ウォルトン:交響曲第2番

11月4日に
ヴォーン・ウィリアムズ:ノーフォーク狂詩曲第2番 ニ短調(ホッガー補完版)
ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲
ウォルトン:交響曲第1番

という、素晴らしいプログラムの演奏会を行なったのだが、私は聴きに行くことが出来なかったので、改めてブリテンのピアノ協奏曲を聴き直してみた。

DECCAから出ている、ブリテンの13枚組の管弦楽曲ボックスに納められたもので、ピアノは、スビャトスラフ・リヒテルが弾いていて、作曲家本人の指揮によるイギリス室内管弦楽団の演奏によるものだ。

ブリテンの指揮というのは、多くの作曲家の指揮とは一線を画して、自作の指揮ばかりでない録音が残っているし、リヒャルト・シュトラウスや、ストラヴィンスキーなどと違って、作曲家の余技とは言えないものだろう。
ハチャトゥリアンの自作自演も細かく言えば、粗いところがあるが、ブリテンの指揮は完成度という意味でも、他の指揮者の必要を感じない。

このボックス・セットは、チェロ作品もロストロポーヴィチによる演奏で、チェロ・ソナタは、ロストロポーヴィチと作曲家自身による演奏で、記録的にも重要なものだ。
13枚組のボックス

ブリテンのピアノ協奏曲は、十分に独創的でもあるし、十分にモダーンだけれでも、聴きやすい作品になっており、バルトークやショスタコ-ヴィチ、プロコフィエフのピアノ協奏曲と比べても見劣りする作品ではないように思うのだが、演奏機会は非常に少ない。

難曲なので、あえてレパートリーにしようというソリストが現れないのだろうけれども、埋もれてしまうのは惜しい作品だ。

併録のヴァイオリン協奏曲とともに、ぜひ聴いてみて欲しい作品だ。

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新交響楽団第227回演奏会でした
2014年10月26日(日) 23:12
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今日は新交響楽団第227回演奏会でした。

4曲乗り番というのは、ちょっと記憶にないので、稲刈りの翌日ということもありますが、身体に堪えました。

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完遂したので、とりあえずホッとしてます。
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プロコフィエフ交響曲第5番の名盤とは?
2014年08月25日(月) 23:59
いま、プロコフィエフの交響曲第5番を練習してることもあり、従来の手持ちCDに加えて、近々の名盤はないものか、といろいろ調べてみた。

結論としては、いろいろな紹介サイトで一致した見解のようなのだが、
プロコフィエフの第5番は、
「あれだけの著名曲ながら、決定盤と呼べる録音が存在しない」
らしい。

私が従来から持っていたのは、「CD黎明期」に¥3800くらいで買った、
バーンスタイン/イスラエルフィルのもの
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ロストロポーヴィチ/フランス国立管弦楽団による交響曲全集の中のもの
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それと、主として「歌唱入りキージェ中尉」目的で買った、小澤/ベルリン・フィルのもの
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の3点であった。

ロストロポーヴィチの全集は、発売当初から値段もお手頃だったこともあり、プロコフィエフの交響曲をこれ以上揃えたいという思いもなく、これだけで満足していたのだが。

今回、「決定盤はない」と言われつつも、その中でも「まだマシか」と評されているいくつかの盤を入手してみた。

そもそもCDで入手できる現役盤がすごく少ないのだが…

まだ、サンクトペテルブルク・フィルがレニングラード・フィルだった時代に若き日のマリス・ヤンソンスと録音したもの
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それと、これは日本では品切れで、アメリカAmazon(Amazon.com)に出品されていた、中古盤。
盤の代金は$1、送料が1700円くらいのもので、4日ほどで届いた。
ジャン・マルティノン/フランス国立管弦楽団の全集の中のもの
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どれも古い録音ばかりだが、ショスタコーヴィチの交響曲と違って、1990年以降、あまり新録音自体が出ていないように思う。

実演では、1番、5番、7番以外の交響曲も耳にする機会が増えたように思うプロコフィエフだが、録音の世界では、エアポケット的に、新録音に恵まれていない曲なのかもしれない。

第5番だけを単独で録音・発売する、ということが却ってマーケティング的に難しくなったご時世も反映しているかもしれない。

ロシアのオケによるものが、ヤンソンス/レニングラードのものしかないのも象徴的なのかもしれない。

プロコフィエフの第5番という曲も、作曲の動機としては、第二次大戦の戦意高揚音楽に他ならないのだが、この曲にテーマ性を求めることは不毛のようにも思う。

プロコフィエフの5番は音楽そのものとして、優れているのであり、音楽以外の何かを表そうとしているわけではない、と捉えてはいけないのだろうか?

純音楽は純音楽であれば良く、音楽以外の何かを表現しなければならない理由などそもそもないのであって、もっと踏み込んで言えば、音楽以外の何かを描写、表現していないものの方が、ある意味優れていると評されても良いはずなのだが、この曲に関しては、マーラーの交響曲の青春やら死、ショスタコーヴィチの交響曲の持つ様々なテーマ性などを前にしてしまうと、何か戦争やら人間ドラマやら生と死の問題やらとの絡みで説明できない音楽を、扱いかねるように、放り出されている印象がある。

もとより、ブラームスの交響曲は、「何かを表している」などと説明出来なくても、その価値は何も減ぜられるものはないわけだが、近代の交響曲は「何かを表していて欲しい」という無意識の意識が、演奏者にも、聴衆にもあるように思える。

この「何かを表しているか」問題は、直近世間を大きく騒がせた、某交響曲の問題とも通じる大きな問題なのだが、その話はまたの機会に。
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新交響楽団第226回演奏会でした
2014年07月06日(日) 22:05
今日は新交響楽団第226回演奏会でした。

飯守泰次郎先生を迎えて、

ワーグナー:ワルキューレの騎行 (楽劇「ワルキューレ」より)
ワーグナー:夜明けとジークフリートのラインへの旅 (楽劇「神々の黄昏」より)
ブルックナー/交響曲第6番

自分の所属する団体の演奏会を客観的に評価することは難しいという話を毎回書くけれども、今回は自分の所属する団体ではあるけれども、ちょっと歴史に残る名演奏になったのではなかろうか、とブルックナーの最後の和音が響いた瞬間に感じたし、どのメンバーと話しても同様に感じているようだ。

自分がステージにいたワーグナーはさておき、客席で聞いたブルックナーの6番という曲は、なかなか形にするのが難しい曲で、一見意味不明な経過句というか断片というようなものがたくさん出てきたりするわけだが、それらが有機的に一体感のある説得力集中力のある演奏になっていたように思う。

そもそも演奏の機会の少ないブルックナーの6番だが、貴重な経験が出来たように思う。

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有意義で贅沢な時間を過ごさせていただいた。
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今日はI先生のパート練習でした
2014年06月07日(土) 23:59
今日は1シーズンに一度のお楽しみ、I先生のパート練習でした。

暖かい音を出すこつ、高い倍音を多く出すこつ、低い倍音を多く出すこつ、目からうろこが落ちる話がいっぱい出てきます。
深いお話がたくさん聞けました。

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KAWADE夢ムックの「伊福部昭」 貴重な内容満載!
2014年06月06日(金) 23:41
先日の5月31日は伊福部昭先生の100回目の誕生日であり、東京交響楽団による記念演奏会などもあったのだが、河出書房から、思いもよらぬ貴重なムックが出た。


伊福部昭: ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)伊福部昭: ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)
(2014/05/31)
片山 杜秀

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生前に自叙伝を編む予定で行われた、未出のインタビューが掲載されている。

聞き手は片山杜秀氏であり、この部分だけでも十分単行本に出来る内容である。

その他にも片山杜秀氏による、
正統で異端----「3.11」後のための伊福部昭入門
は、今現在、伊福部昭をどのように捉え、位置づけるか、示唆に富む内容で、これも読み応えがあった。

生誕100年を迎え、これほどの高揚感をもって回顧される作曲家が今後の日本に現れるのか?
2030年には武満徹も生誕100年を迎えるわけだが、果たして伊福部ほどの実演や回顧が行われるのか?

武満徹作品の演奏頻度は、客観的に調べてもらいたいことなのだが、明らかに生前の方が頻繁であり、死後の方が稀になっているように思う。
芸術的な品位という点では、武満徹の方がはるかにハイセンスであることは私も認めるところだが、私が重きを置くのは、アマチュアや一般大衆をも含めた、マーケットとしての需要があるかどうか、が、作品の「真価」であることは、否定できないだろう、という点だ。

伊福部など、怪獣映画の作曲家だ、過去の作曲家だと言われる専門家の方も大勢いらっしゃる。

しかし、聞かれ続ける、演奏され続けるということ以上に真価を図れるバロメーターがあるとは思えない。

生誕100年を過ぎても、伊福部作品は忘れ去られることはないだろう。

このKAWADE夢ムックの「伊福部昭」、すべての音楽ファンに読んでもらいたいし、音楽の真価とは何か、を今一度考える契機にしてもらえたら、と思うのである。

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小林奈那子(チェロ)Short Trip Concert Vol.1でした
2014年05月31日(土) 23:59
小林奈那子さんのチェロは、縁あって何度か聴かせていただいて来たのだけれども、クラシックの曲を聴かせていただくのはこれが初めて。

カフェでの少人数のコンサート。
共演のピアノの長崎麻里香さんのピアノソロの曲もあり。





渋谷松濤のCafe Takagi Klavierで。
http://www.cafetakagiklavier.com/

今回のセットリストは、今年の3月に箱根にあるポーラ美術館で、ルノアールの絵画のもとで演奏したものと同じセットリストとのことで、ルノアールや絵画的なモチーフと関係のある曲が選ばれている。

カフェでの気のおけない小品コンサートというかたちを取りつつも、メインにはドビュッシーのチェロ・ソナタを置くなど、結構攻めたプログラムだ。

弦楽四重奏はともかく、チェロの演奏会にそれほど頻繁に足を運ぶわけではないので、もしかすると、ドビュッシーのチェロ・ソナタを実演で聴いたのは初めてかもしれない。

ソナタ形式を用いない「ソナタ」という異形の作品。
ドビュッシー最晩年の境地であるとともに、奏法的にもあらゆる要素を盛り込んだ、短いけれども緊迫感のある作品だ。

アンコールはフランスの作曲家のチェロの曲と言えば...という感じで定番の曲。

色々と堪能させていただいた。





チェロはやっぱりいいなぁ。

備忘として、フランスのチェロと言えばこの人か?と思われるトゥルトリエの演奏を置いておく


Vol.2以降も楽しみ。
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都響のコルンゴルト交響曲を聴く
2014年05月27日(火) 23:57
今年は私の大好きなエーリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトの作品が、毎月のように実演されるという夢のようなことになっている。

3月の新国立劇場の「死の都」、東京春音楽祭での室内楽演奏会にも足を運んだ。

今月は山田和樹/日フィルでのヴァイオリン協奏曲もあったのだが、これは行くことが出来なかった。
しかしヴァイオリン協奏曲はコルンゴルトの作品の中でも一番演奏頻度の高い曲なので、また機会があると思われる。

交響曲の実演は日本で初めてということではないけれども、グリーン・ユース・オーケストラ '99(アマチュア)による1999年の日本初演、2001年の新日本フィル、2007年のシティフィルの3回だけであり、非常に稀有なことなので、聴きに行かないわけにはいかない。

当たり前のことだが、録音でどんなに親しんだ曲でも、ナマの演奏で聴かないと真価はわからないものだ。

マルク・アルブレヒトと都響の演奏は作品の魅力を伝えるに十分で、実に力強い演奏だった。
都響がどの程度までの共感をこの作品に抱いてくれたのかは、さすがにプロの演奏家の方々なので、本音のところはわからないけれども。

第1楽章始まってほどなく現れるフルート・ソロは、曲の印象を方向付ける重要な役割だが、寺本先生の音色は実にすばらしかった。

マルク・アルブレヒトは都響のサイトに以下のような文章を寄せている。

『規模の壮大さ、ブルックナーのようなアダージョ。
 人生の希望と悲劇を表した荘厳な作品』


首席指揮者を務めるネザーランド・オペラをはじめヨーロッパの歌劇場で活躍中のマルク・アルブレヒト氏から、5/27(火)の定期演奏会Bシリーズ(サントリーホール)で取り上げるコルンゴルトの大作交響曲についてメッセージが届きました。

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コルンゴルト後期の交響曲嬰ヘ調を指揮するたび、私は驚くべき傑作を演奏しているのだと確信します。規模の壮大さ、ブルックナーのような美しいアダージョ、グロテスクなスケルツォの超絶技法は、ほとんど演奏されないこの曲を真実の発見へと導きます。
作曲家自身にとって私的な性格をもったこの作品は、彼の人生における希望と悲劇両方の側面を表しています。コルンゴルトが1934年に祖国オーストリアを去らなければならなかった時、かつての神童はR.シュトラウスに次いで最も成功したオペラ作曲家として認められていました。そして20年後、ナチスの恐怖が終わった後、彼はウィーンに戻って交響曲嬰ヘ調の初演を行いました。
残念なことに演奏はつまらなく、良い状態ではなかったため、彼を愛した聴衆からの冷たい拒絶は、彼を本当に失望させました。
だからこそ、コルンゴルトの荘厳な作品を演奏することは、毎回が私にとって特に重要だと考えているのです。


と、マルク・アルブレヒトは語っているけれども、第3楽章を「ブルックナーのよう」と例えるのは、ちょっとピンと来ない部分もある。
この交響曲のアダージョは、むしろコルンゴルト自身のオペラの悲劇的クライマックスに通じるものがあり、天上的なブルックナーというよりも、世俗的人間的な劇性を強く感じるのである。

この交響曲をはじめて聴いた人の印象は、おそらく第2楽章のホルンのSoliとそれに続く弦楽器の楽想の部分が印象に残るのではないかと思われる。
確かにここのひとくさりは、ジョン・ウィリアムス的な、印象的なフレーズではある。

しかし、大戦を挟んで映画音楽を多く書いて来たコルンゴルトが、本格的な純粋音楽を「交響曲」という前世紀的な形で残そうという並々ならぬ決意が積み重なっている曲で、曲の各部分は、できるだけ具象的イメージや、付随音楽的な要素を徹底して排除しようという意思が現れているように思う。

今日の演奏会は前半に、これまた演奏される機会の少ないメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番を置いている。
一般的でないコルンゴルトの交響曲をメインに置いての演奏会であるから、興行的には非常にチャレンジ的なプログラムと言える。

しかし、コルンゴルトとメンデルスゾーンの間には、「独墺圏でティーンエージの頃から『神童』として華々しくデビューしたユダヤ人」というだけでなく、コルンゴルトとハリウッド映画音楽に関わりが、映画『真夏の夜の夢』のために、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の音楽をコルンゴルトが編曲したことから始まっているので、縁の深い組み合わせなのである。

今月の日フィルのコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲とラフマニノフ交響曲第2番という組み合わせも秀逸なプログラミングだったが、今日の都響のメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番とコルンゴルトの交響曲の組み合わせも実によく出来ているのである。

参考として、音源を置いておく。

第1楽章


第2楽章


第3楽章


第4楽章


20世紀後半を代表する「交響曲」と言えると思うのだが、この曲は1954年に放送初演されたものの、作曲家の生前には省みられることなく、観客の前で演奏されたのは、1970年代になって、ルドルフ・ケンペがミュンヘンで演奏するまで待たなければならなかったし、演奏会レパートリーとして、目にするようになったのは、世界的にも1990年代になってからなのである。

久々の都響
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コルンゴルトの交響曲、堪能させていただきましたが、まだまだこの曲の真価が定着するには、更なる啓蒙活動が必要か、とも、思いました。
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新シーズン始まる
2014年04月19日(土) 22:28
今日から新しいシーズンが始まりまして譜読みでした。

鍬を振るう筋肉とシンバルを振るう筋肉は全然別系統のようで、久々の合わせシンバル連打がつらくて驚きました。
若い頃はシンバルちょっと振ったぐらいでつらいなんて思ったことなかったのですが。

シンバルもリハビリ必要。

手を見たら緑青で真っ青だったので、車に積みっぱなしだったシンバルのメンテも必要。

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東京・春音楽祭《E.W.コルンゴルト》 ~二つの世界の狭間で
2014年03月31日(月) 22:11
今月は新国立劇場の「死の都」、読響のヴァイオリン協奏曲と4日連続のコルンゴルト上演があるなど、正に忘れられた作曲家・E.W.コルンゴルトの特別強化月間だったわけだが、その最後を〆るのが今日の東京・春音楽祭の中の一夜、

《E.W.コルンゴルト》 ~二つの世界の狭間で 
ウィーンからハリウッドへ、20世紀を生きた最後の「神童」を聴く

オペラ、歌曲、ピアノ曲、室内楽と、コルンゴルトの生涯を時系列にたどって行く構成。

やはり、CDでは聞いたことがあっても、コルンゴルト、ローティーン時代の曲を実演で聴くとの肝を抜かれる。

これまでコルンゴルトだけのプログラムによる演奏会が日本で行われたことがあるのかわからないけれども、今日の演奏会は、びわ湖、新国立劇場の「死の都」に比肩するぐらいのエポックとなる演奏会だったのではなかろうか。

中村伸子さんの構成、司会進行によって

歌劇「ポリュクラテスの指輪」Op.7より冒頭

7つのおとぎ話の絵 Op.3より
 1.魔法にかかったお姫さま
 2.えんどう豆の上に寝たお姫さま
 3.山の精

まつゆき草(「6つの素朴な歌」Op.9より)

ヴァイオリン・ソナタト長調 Op.6より 第4楽章

マリエッタの歌(歌劇「死の都」Op.12より)

<休憩>

シュトラウスの物語 Op.21

「4つのシェイクスピアの詩による歌曲」Op.31より
 1.デスデーモナの歌
 2.緑なす森の木陰で

弦楽四重奏曲 第3番ニ長調 Op.34

ウィーンに捧げるソネット

ソプラノ:天羽明惠
テノール:又吉秀樹
ピアノ:村田千佳
ストリング・クヮルテットARCO
第1ヴァイオリン:伊藤亮太郎 第2ヴァイオリン:双紙正哉 ヴィオラ:柳瀬省太 チェロ:古川展生

アンコールには歌劇「カトリーン」より「さすらいの歌」(田川めぐみ編)

実にオペラから演奏会用音楽までいろいろなジャンルから盛りだくさんにコルンゴルトの魅力満載の演奏会であった。

コルンゴルト13歳の時の作品「7つのおとぎ話の絵」



17歳のときの最初のオペラ「ポリュクラテスの指輪」


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聴き応えという意味では、「死の都」に比肩する演奏会だった。

今後もコルンゴルト実演の機会が増えることをねがう。
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ピーター・ボイヤーの新譜届く
2014年03月26日(水) 23:33
個人的に注目のアメリカの作曲家、ピーター・ボイヤーの新譜が届いた。

1.シルヴァー・ファンファーレ(2004)
2.フェスティヴィティーズ(2011)
3-5.弦楽のための「3人のオリンピア」(2000)[I:アポロ/II:アフロディーテ/III:アレス]
6.祝典序曲(1997/2001改編)
7-9.交響曲 第1番(2012-2013)


ピーター・ボイヤー:交響曲 第1番 他ピーター・ボイヤー:交響曲 第1番 他
(2014/03/26)
Naxos *classic*

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3/26発売とのことなので、今日が発売日のようだ。
昨年2013年6月に録音されたアルバムである。

初めて聞く曲も多く収録されている。

ピーター・ボイヤーは、レナード・バーンスタインやジョン・ウィリアムズへの憧憬や影響を自身でも語っていて、作品の中にはコープランドから連なるアメリカ音楽の系譜が明らかに感じられる。
アイブスやバーバー、ウィリアム・シューマンの要素も入っているかもしれない。

21世紀にこういう能天気な音楽を書いていることに関しては、アカデミズム的な作曲界からは、まともなものとして扱ってもらえていないのかもしれないけれども、聞いて心地よいことは、古典であろうが、現代音楽であろうが、必要な条件だと思っている。

調性が一本調子で、もう少し複雑さがあっても面白いのではないか、と思われるのだが、徹底したオプティミズムは、ピーター・ボイヤーのこだわっているところらしい。

ネガティブな感情を表現するには、聞く人をある程度不快にさせる音を使うこともできるのだが、ポジテイブなエモーションを音楽で表現しようとする場合、調性やメロディー、把握できるリズム、というものが必要になってくるように思う。

第二次世界大戦以降、世界の作曲界は、戦争の悲劇性をテーマにしようとする傾向が強くなり、深刻な音楽が多くなった。
ソヴィエト連邦の作曲家を除いては、なかなかポジティブな音楽を書いてよい環境になかったと言ってよい。
深刻な音楽もあってよいが、それだけではつらいのである。

このアルバムに収録された交響曲第1番は昨年完成したばかりの出来立ての曲である。

こういうタイプの音楽を「まじめなクラシック音楽として認めるかどうか」
これは個人の趣味の問題だろう。
私は個人の趣味を言えば、現代の作曲家にも、過去の作曲家にも「レパートリーに残る」作品を欲する。
疲れたときに聞き、心を休められる音楽が聞きたい。
ワクワクと奮い立つような音楽が聞きたい。

武満徹の音楽はもちろんすぐれていることは認めるし、三善晃のいくつかの作品もレパートリーには残るだろう。
矢代秋雄のピアノ協奏曲や交響曲、別宮貞雄や黛敏郎のいくつかの作品も。
しかし、作曲賞を受賞しながら、繰り返し演奏会にかけられていない作品がたくさんあるのも事実だ。
なぜ、演奏されないのだろうか?

現代の作曲をしている人々にとって、伊福部昭や芥川也寸志の音楽は「カビが生えたもの」に写るようだ。

しかし、演奏会のレパートリーにのぼるかどうかは、実際の演奏回数として数値で評価が出てしまう問題だ。

特定の作曲家の名前をここであげることはしないけれども、自分が過去に聞き、実際自分で演奏もした曲の中には、どうしてもその良さが体感できなかったものが少なからずあった。

客を呼べる曲を書くという意識。
聴衆に媚びろとまで言うつもりはないが、音楽的な深遠さとエンターテインメント性を同居させる方策はないのか?を現代の作曲家、未来の作曲家にも求め続けていきたい。
音楽はあくまでもエンターテインメントであって欲しい。

実験的な音楽もあってもいいけれども、それしかないという世界はさびしい。

20世紀21世紀にもなって、甘美な音楽を書いてどうする、というご意見があるのは承知しているが、私は楽しい音楽、美しい音楽をもっと聴きたい。
やり尽くして、もう余地がない、とは思っていない。

このアルバムの録音セッション風景とピーター・ボイヤーのインタビューがオフィシャルにYoutubeにアップされていて、さわりを聞くことができる。


この交響曲第1番などは、ぜひとも演奏してみたいと感じさせる音楽である。
それが2013年に新たに出来ている、ということだけでも、楽しいことではなかろうか。

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コルンゴルト 歌劇「死の都」 新国立劇場 でした
2014年03月18日(火) 23:05
いやぁ…素晴らしかった。
感動、感涙の日本舞台初演。

エーリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトの歌劇「死の都」

多少、分析的に聴いてやろうという心つもりもあったけれど、惹き込まれてしまって。

もう、とにかく美しい音楽でした。

プッチーニっぽいとか、リヒャルト・シュトラウスっぽいとか、ハリウッド映画音楽っぽいとか、ジョン・ウィリアムスっぽいとか、確かにそういう要素はあるんだけれども、そんなことは瑣末なことにしか思えない美しい音楽。

ゴージャスなオーケストレーション。
甘美なメロディ。

師であるツェムリンスキーの響きに近いところももちろん多いのだが、歌という面ではプッチーニの後継とも言える要素もたくさんあって、レスピーギのオペラを思わせる部分もある。

もっと演奏されて欲しい作品である。

歌い手にとっては、尋常ではない難しい曲だと思うけれども、さすがに素晴らしい。

オケに関しては東京交響楽団は、もう少し揃って欲しい場面もあったけれども、難曲だと思うので、力演・熱演ではあった。

神童と呼ばれたコルンゴルトが20歳で着手し、兵役を挟んで、23歳で完成させた作品。
信じられない完成度である。



今回のプロダクツはフィンランド国立歌劇場(ヘルシンキ)からのプロダクション・レンタルの形をとっている。

舞台装置は斬新だけれども、舞台である古都ブルージュのイメージをきちんと伝える装置となっている。

フィンランド国立歌劇場の宣伝映像


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コルンゴルトという作曲家のこと自体については項を改めて書きたいと思っている。
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