日々の雑学 ●●●
日々、ふと思ったことを書いていきます。   ・・・千葉ロッテ・マリーンズ、菅野よう子、再生可能エネルギー、自然環境、里山、棚田、谷津田、日本近世史、歴史小説、時代小説、クラシック音楽、・・・などなど。
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オーストリア、チェコ、ハンガリー
2006年09月18日(月) 22:50
昨日の続きだが、ウクライナ美女との立ち話は、彼女の荷物が出て来て、フランクフルト市内へと出て行くことで、終わりとなった。

私は彼女と話をするまで、ユーチェンコの反ロシア、親西欧政策を、何となく好ましいもの、に思っていたのだが、彼女は、ウクライナだけでなく、グルジアなど、反ロシアを鮮明にしている国々があるけれども、ロシアとの文化的、経済的な繋がりは、心情的には深いものがある、という。
特に、グルジアのように、宗教も文字も言語もロシアとは違う国は別として、ウクライナ、ベラルーシは、宗教もロシア正教で、言語も方言程度の違い以上のものはなく、思いのほか親ロ的感情を持っている市民もいるのだなあ。
と感じさせられた。

例えば非常に口やかましい厳しい親に育てられた子供が、ハイティーンになって、特に先の見通しがあるわけではないけれども、とにかく、うるさい親から干渉されたくない、という気分になって、外の世界は、何だか実態はわからないけれども、とにかく親元を離れた、一人暮らしを始めたい、と思うような感情が、ユーチェンコ・ウクライナを生み出したのかも知れない、と思った。

しかし、外の風は思いのほか冷たく、EUやアメリカからの投資と言っても、どれほど、親身になってくれるかどうかは、心許なく、気づいてみれば、やはり親子の血の繋がりの絆というのもは、思うの他、重要だったということに、外に出てみて気づいた(あるいは気づくだろう、ということを彼女は肌身で心情的に感じている)、というのが、今のウクライナの実態なのかも知れない。

チェコ、ハンガリーも、EUに加盟したとはいえ、昨日も書いたように、オーストリアとは、色々な意味でまだまだ格段の較差がある。

ウクライナがEU志向を強めたとはいっても、まだまだ、先は長いように思う。
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フランクフルトから成田への機中で
2006年09月17日(日) 21:36
さあ、こちら時間16日で、旅も終わり。

フランクフルトから成田への機中にて。
今回のプラハ、ウィーン、ブダペシュトの旅行を通じて感じたことは、チェコもハンガリーも、EUに加盟したとはいえ、オーストリアとは色々な意味で歴然とした差がある、という実感だ。
いわゆる壁の崩壊から、もうすぐ20年に成ろうとしている。
しかし、旧東欧と旧西欧の差は容易に埋まるものではない。

今回、チェコ/オーストリア国境を3回通過し、オーストリア/ハンガリー国境を一度越えたわけだが、基本的に似たような田園風景が連続していているように見えるが、チェコ、ハンガリーに入ると、窓ガラスの割れた廃屋や廃工場、廃倉庫が目に付くし、同じ牧草地でもオーストリアの牧草地の手入れのされ方と、チェコ、ハンガリーの牧草地の手入れのされ方は、牧草の「毛並み」と言ったもので、明らかに国境を境に歴然と違う。

それとは別に、オーストリアの田園風景として、際立っているのは、林立する風力発電風車だ。
もう本当に「林立」している。
オーストリアが風力発電先進国であることは、書物の知識としては知ってはいたが。
丘の上とか、もう少し、風況の良いところを選んでいるのかと、思っていたら、もう、ところかまわず、風車を立てまくっている、という感じだ。
この発電風車の光景も、国境を境に歴然とした田園風景の違いとして印象深かった。

ブダペシュトから、フランクフルトまでのマレブ・ハンガリアン航空のチェックインゲートで、ボーディングが始まっても、私は早くひこうきの乗るのは意味がない、と常々思っているので、列が無くなるまで、待合椅子に座っていた。

となりに、オードリー・ヘプバーンにちょっと似た素敵な女性が座っていたので、それも私がなかなかチェックインしなかった理由でもあった。

そうしたら、その女性が、「あなたは忍耐強いですね」と話しかけてきた。
私:「ええ、飛行機に早く乗り込むのは、まったく意味がないと思うんですよ。飛行機の椅子よりも、この椅子のほうがゆったり座れるし、早く乗っても早く出発できるわけではないので」
オードリー・ヘプバーン女史:「そうですね。それに、空気も機内のほうが悪いし。お一人で旅行なんですか?」
私:「ええ、そうです。」
オードリー・ヘプバーン女史:「日本人では珍しいですね。日本人は皆、グループで旅行をするでしょ。」
私:「ええ、一般的にはそういう傾向がありますね。しかし、私に関して言えば、一人で旅をするのが好きなんです。 自分が行きたいと思ったところへ好きなときに行けるし。エキサイティングな体験をすることができます。」
オードリー・ヘプバーン女史:「そうですね。以前に日本人で自転車スウェーデンから、スイスまで旅をしている、という人に会ったことがあります。」
私「それはまた、チャレンジャブルな人ですね。」
と言ったところで、列も短くなり、そろそろ乗りましょうか、ということで、私は彼女がどこ国の人なのか、流暢だけれども、ネイティヴではない英語から、疑問に思って、「どちらからいらしたんですか」
「ユークレインです。」「は?ユークレイン?」「ウクライナです。」「ああ、ウクライナ、ユークレインですか」
などと話しながら機内に乗り込んだ。
フランクフルトに着いた後も長い通路を歩く間、なんとなく彼女と話しながら歩く形になったが、彼女は両親がジャガイモ畑を営っていて、これから収穫期なので、手伝いに帰るそうだ。
私がロシア語の挨拶をするので、ロシアとウクライナ、ベラルーシは言葉もそうですが、文化的にはほとんど同じなんですよ。と彼女。
彼女はパーソナルな意見だが、とした上で、ウクライナはユーシェンコのオレンジ革命で西側、EU、の方を向こうとしているこれども、ベラルーシ、ロシアと文化的な一体感はあって、ロシアに背を向けることは、心情的には疑問を持っているんです。
EUとの交流が盛んになっても、所詮ウクライナ人はEUで、肉体労働をする形のかかわりしかできない。…like slave…
あなたは、ウクライナの進むべき道についてどう思いますか。
…と来た。
こういうところで、ちゃんと語れるかどうかが、流暢が語学力とは別物の、コミュニケーション能力である。

アメリカ一国超大国主義は、世界をあまり良い方向に導いているとは思えない。
冷戦時代の覇権主義的なパワーポリティクスに戻るわけではないが。ロシアにもそれ相当の存在感があった方が良いと思う。
ウクライナも西欧ベッタリで行くのは考えものではないか。バランスをとらないと。
という意味のことを言ったように思う。

彼女も石油については、ロシアの"Say Hallo"西欧、アメリカが投資をするといえばそちらに"Say Hallo"とやって行かなきゃならない、というような話。

もう既に、バッゲージ・クレイムまで来て、ボクの荷物は成田へ直行し、彼女は今日はフランクフルト泊まりなので、荷物が出てくるの待っているのだが、熱心にウクライナ情勢について語っていたので、彼女の荷物が出てくるまで立ち話。

雑感の続きは明日。
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バルトーク漬けの一日
2006年09月16日(土) 18:09
今日(こちら時間の15日)は、朝から晩までバルトーク漬けの一日でした。
ブダペシュトの街も歩き回るに連れて、慣れて来ました。だいぶ印象良くなりました。
こんなものと思えばこんなもの。

朝一番で、郊外の住宅地のバルトークが住んでいた家がバルトーク記念館になっているので、そこを訪ねました。
モスクワ広場Moszkva térから、トラムの56番に乗って、Kelemen L.で降りてちょっと歩きます。
10時の開館前に着いてしまったけれど、開けてくれました。
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バルトークが住んでいた家なんですが、コダーイの家みたいに使用当時の様子を復元するというより、資料館としてリニューアルされていて、小さなコンサートもできるようになっています。
壁面パネルのバイオグラフィーには日本語もあり。
お客が一人だったからからかもしれませんが、学生アルバイトっぽい、おねえさんが英語で説明しながら案内してくれます。
愛用の家具類はは典型的なトランシルヴァニアの民具調のすっきりシンプルだけど、センスがいい感じのもの。
バルトークが収集していたのは民謡だけではなく、民具や昆虫や植物なども収集していたことがわかり、コダーイに誘われてハマった民謡採集は、バルトークの嗜好にもハマってたんだろうな、と実感。
もらった勲章とか、コダーイからもらったコートとかも展示。
ポートレイトでは眼鏡をかけているものを見かけないですが、彼は眼鏡をしていたんですね。5個くらい眼鏡も展示してありました。

午後はファルカシュレーティ墓地Farkasréti temetőに行き、バルトークの墓参。
同じくモスクワ広場Moszkva térから今度は59番のトラムに乗って行きます。
終点の2つ手前、その名もFarkasréti temető電停で降りると、Farkasréti temetőの正門前です。

バルトーク記念館のおねえさんも行けばすぐわかる、と言ってましたが、墓探しはやはり結構大変です。

有名人の墓番号表とかが出ている墓地は良いのですが、ここファルカシュレーティ墓地にはブロック番号を表示した地図は掲示されていますが、著名人の位置までは書いていない。
しかし、コダーイの墓はコダーイの名前がついた著名人ブロックにあることは事前にネット情報でわかっていたので、Kodály Körlöndというブロックがあり、地図でここだな、と、いったんは確認。
守衛さんにバルトークの墓は?と聞くと、正面入り口から見て、左の道を行って左側、とのこと。60/1区。
墓石自体の写真は見たことがあるので、見つければ間違いようがないのですが、歩いていくと、バルトークのその前に、否応なく白くて目立つサー・ゲオルグ・ショルティの墓が先に目に入ってきました。
バルトークの墓はその隣にあることはわかっているので、無事発見。
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入り口脇の花屋で買ったお花を供え、合掌。
このバルトークのお墓は実は新しくて、バルトークはご承知のようにアメリカで亡くなっていますので、アメリカに埋葬されていました。
それをショルティが中心となって里帰りを図り、1988年にアメリカからブダペシュトに改葬されたものです。
一応、ショルティの墓にももちろん、手を合わせましたよ。

コダーイの墓は容易にわかるはずだと思い、この辺のはずだ、というあたりを徘徊。
一度入り口まで戻って、地図で確認してからくればよかったのですが、このあたりだと思い込んでしまって迷ってしまいました。
目の前にいたおばあちゃんにコダーイの墓、わかりますか?と聞いたところ、思いのほか、全く見当違いの場所に来ていて、おばあちゃんも口で説明できず、申し訳ないことに、足がお悪いのに、一緒に連れて行ってくれることに。
恐縮し、辞退したのですが、いいからいいから、という感じで、とぼとぼと歩いていきます。
えーとこの区画の、ここですよ。という感じで、前まで連れてきてくれたので、手をとってケセネムを何度も言いました。
コダーイにも無事墓参。

バルトーク、コダーイ墓参ガイドも帰国したらサイトに掲示しましょうかね。

今回の旅行で、ドヴォザーク、スメタナ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウス父子、モーツァルトのあれは正式に墓と言えるのか、記念碑と言った方がいいかもしれません。ズッペとか他にもありましたが。
そして、マーラー、バルトーク、コダーイと墓参を果たしました。
残る大所はやはりロシアですか…。

夜はハンガリー国立歌劇場で、その名も”Triple Barók”という、「木製の王子」、「不思議なマンダリン」、「青ひげ公の城」というバレエ2編、オペラ1編の、バルトーク舞台作品一挙3本建て。
日本でハンガリー国立歌劇場のサイトで予約したときから、これって凄く長いコンサートになるんじゃないのかなあ? と思っておりましたが、18開演で22時終演。
何と4時間に及ぶコンサートでした。
客層はむしろ日本の方がクラシック詳しいだろうなあ、という感じで、よくこのバルトークのお世辞にも心地よいとは言えない音楽に4時間もよく平気で付き合っているなあ・・・と関心。地元の人ばかりではないですよ。英語を話す外国人とドイツ語を話す外国人も結構多い。

バルトークに明け暮れた1日でした。
来年は、弦打チェレをやるようなので、その成功祈願も含めて。

しかし、バルトークももちろん素晴らしいんですが、ハンガリー国立歌劇場は素晴らしい。実に素晴らしい。美しい。

ウィーンのシュターツ・オーパーや、パリのガルニエ宮のオペラ座よりも、ここの方が美しいのではないか。
ミラノに行ったことがないので、スカラ座は知らないですが。

オペラ目的でヨーロッパを旅行されるのであれば、絶対お薦めです。ハンガリー国立歌劇場。
オペラ上演していなくても、国立歌劇場で毎日15:00と16:00にある英語のガイド・ツアーにはブダペシュト観光の際には是非参加をお勧めします。

ロイヤルボックスすぐ脇の3階バルコンの正面のロジェの1列目で6.500フォリント約3,250円也。
やはり歌劇場は正面のバルコン1列目がいいですね。オーケストラに興味のある人は、値段の高い2階のバルコンよりもむしろ3階のバルコンを狙った方が、オケピの中が良く見えるので、それも良いかも。
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ブダペシュトという街、侮れません。
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ブダペシュトへ
2006年09月15日(金) 07:17
ウィーンからブダペシュトに来ました。
ブダペシュトの第一印象は暗い、でかい、無愛想。
都市の規模としてはとても大きいですね。
威圧感のある、重厚な建物がどこまでも延々と続いている。
古くて、黒いんですよね、どの建物も。
街娼、極めて多し。乞食、極めて多し。落書き極めて多し。
街路灯少なし。
街娼は一応、観光客が多い土産物屋などの並ぶ、歩行者専用になってるVaci通りですが、5メートルに1人くらいの感覚で、おねえさんが立ってらっしゃる。近づいてきて、Hello S_xの2ワード。たった2ワードで成立するシンプルなコミュニケーションですね。
さすが、世界最古の商売と言われるだけのことはある。
後から怖いお兄さんが出てくるシステムや、病気のことさえなければ・・・ねぇ。あれですけれども、丁重にお断りするしかない。
さっき断った子が、その道を戻ってきてみたら、東南アジア系かと思われる2人連れのお客とシステムの説明と値段交渉に入っている。一晩丸坊主ということもないのかも知れませんね。

それと、全然わからんマジャール語。
オーストリアのドイツ語は、完全に忘れた、と思っていても、いざ現場で「いくら?」って聞こうと思うと、「ヴィフィール?」という言葉が不思議に口をついて出るのでおどろきます。
完全に忘れてたんです。「いくら?」って何て言うんだっけ?とか、来るときの飛行機の中では思っていたけど、使用場面の現場になると、考える前に言葉が先に出てくる。やはり10代でインプットしたものは強いですね。

チェコ語も北方スラヴ語の仲間なので、ロシア語の挨拶をひと通り覚えた経験がある私には、チェコ語のDobrý večer ドーブリィ・ヴェーチェル こんばんは という言葉も、ロシア語の こんばんは Добрый вечер ドーブルィイ ヴィェーチェルを知っていると、とりあえず、どういう系統の言葉か、箸にも棒にも、ということもない素性はわかる感じはする。(話せるわけではないけれど)

その点、マジャール語はホントに箸にも棒にもかからない。まったく系統の違う言語ですから、フランス語、イタリア語、スペイン語のラテン系諸語、英語、オランダ語、ドイツ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語などのゲルマン系の諸語、なんとなく共通点はあって、もちろん違うんだけれど、ドイツ語の知識があれば、スウェーデン語も意味のわかる単語は多い。
ラテン系、ゲルマン系の西欧諸語と、スラヴ系の言葉はもちろん大きく違うのだけれど、例えば「数字の3」はロシア語でもтри トリー、チェコ語でもTři。英、独、仏とまったく違うわけではない。Třiのřは、Dvořákのřなので、トゥシーという発音になるけど、字面ではわかる。
2はロシア語でДваドヴァー、チェコ語でもDvaドヴァ、Dか、T音が最初に来て、WかVが来てと、ドイツ語のZwei ツヴァイ、も同じです。
所詮、印欧語族なわけです。

それが、マジャール語になると、2はkettő ケットゥー、3はhárom ハーロム、もう周辺の印欧語族とは全然違うわけで、もう覚えようという気にもなりません。

せめて、という思いで、一つ覚えた単語は、ありがとう のköszönöm ケセネム。
民族お土産の有名店、Forkart Centrumの店員のネエちゃんに、発音が良い、と誉められた、köszönöm。

他言語表示って、ダメなのかな?
インストールしてない人には、文字化けして見えてるのかも。

ブダペシュトは観光スポットも固まっていなくて、散らばっているので、結構大変です。ドナウ川もプラハのブルタヴァ川の倍以上の川幅がありますので、カレル橋を渡る感覚で、くさり橋を渡ると、これが結構しんどい。
ブダ王宮のお城も規模が大きいです。

規模が大きいといえば、教会。
今まで、ケルンの大聖堂や、パリのノートルダム、そして今回のウィーンでの聖シュテファン教会、などなど、ドム、ドゥオモ、大聖堂なるものを、数少ない経験ながら見て来ましたが、ブダペシュトの聖イシュトヴァーン教会は、今まで見た教会の中で、最強力だと思いました。
美しさ、規模、などなどの点で圧倒されました。
ウィーンのシュテファン大聖堂より、全然すごい。何がすごいって、よくわからんがとにかくすごい。
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写真じゃ伝わりませんが。

ブダの王宮の丘から見たペシュトの側の風景
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リスト・フェレンツ博物館や、コダーイ・ゾールタン博物館なども行きました。
それぞれ、彼らが住んでいたアパートの一室を、資料館にしたもの。
リスト・フェレンツ博物館も建物の表には表示がなく、建物の中に入って、リスト・フェレンツ博物館に行きたい、というと通してくれます。日本語で「博物館は一階です」と書かれた小さな紙が貼ってあったが、一階とは、日本で言う二階のことであります。
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コダーイ・ゾールタン博物館はもっと凄く、普通の建物の壁のインタフォンで部屋番号11を押し、インターフォンに向かって「コダーイ・ゾールタン博物館を見たいのですが」と言うと玄関ドアがカチャッと開錠され、建物の中に入ることができ、さらに中庭の階段を上がって行くと、コダーイ・ゾールタン博物館があります。
普通の家だから仕方ないですね。

彼の居室が再現されていて、ハーリ・ヤーノシュ初め、彼の主要作品の自筆スコアの本物が飾ってあります。
プラハのスメタナ博物館はカレル橋のたもとという便利なところにあったけれど、自筆スコアはコピーの展示でしたから、コダーイ・ゾールタン博物館、なかなかスゴイです。

国会議事堂も圧巻。
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トラム、シュトラーセンバーン、路面電車のことなど
2006年09月14日(木) 06:32
今日(こちら時間の13日)はウィーンの残った場所を見て回りました。
プラハでも、ウィーンでもトラム(ウィーンではシュトラーセンバーンですね)には大変お世話になりました。
何回乗ったか、思い出せないくらい。

都市交通の主役に路面電車がある街というのは、人に優しいですね。
東京も私が生まれた頃まで、世界有数の路面電車網を持った都市だっただけに、残念ですね。

モータリゼーションはどこの国にも同様に訪れたわけだけれども、欧州の諸都市は旧西側、東側に関わらず、都市設計に対する行政の関与度が非常に高い。
日本も江戸時代と戦前までは行政の関与度は結構高かったんですけどね。

そのうえ、日本と欧州の諸都市の大きく違う点は、馬車時代を経験しているかどうか、という点です。
馬車システムに対応した都市設計。
馬車というのは、ある意味で自動車よりも、取り回しの利かない(バックができない、急カーブが曲がれない)システムでしたから、基本的に馬車がすれ違える幅員が、街路の根本的な構造の根幹を成しています。

曲がり角は丸く作られ、ロータリーも交差点で馬車をさばくのに、もっとも効果的な交差点システムとして発生した仕組みです。

そういう道路の幅員の基本設計が自動車時代を迎える前の段階として、大きな彼我の差がある。
道路に対する考え方のベースがそこにあるから、大通りというものの持つべき幅、というものも、それをベースに「大きな通り」という発想になるので、幅の概念が違う。

欧州の諸都市は、モータリゼーションを受けて道路の幅員を拡張したわけではありません。
郊外のフリーウェイは別として、都市内部の街路は基本的には自動車登場前と、さして変わっていないわけです。

東京の道路は、昭和通りや靖国通りなど、都市計画道路もあるにはありますが、江戸切絵図と現代の地図を重ねれば、ほとんど一致するように、江戸時代の徒歩交通を前提にしてデザインされた街路を、基本的にはそのまま現代に引きずっています。
それに、江戸は貨物輸送は舟運でしたから、物流システムは河岸側を向いていましたし。

当然、モータリゼーション時代を迎えての、路面電車と自動車の共存という意味合いでも、欧州の各都市と日本では、問題の質と量に大きなギャップが生じてしまいました。

これは政府の無計画性云々というよりも、馬車時代を通過しているか、いないか、という根本的な違いから来るもので、仕方がない面もあります。

そんな日本でも、いま、路面電車は日本の各都市でも見直され始めています。
路面電車が残っている街でも延伸や新線の話が出てきたり、宇都宮のように過去に路面電車を経験していない街が、導入を検討したりしています。

欧州でも、しばしば紹介されるフランス・ストラスブールのように、かつて路面電車を持ったことがなかった街に新設がされています。
自動車文化全盛のアメリカでもいくつかの都市で路面電車復活あるいは新設が話題にのぼっています。

東京の地下鉄は路線網こそ増えましたが、あの乗り換えのひどい不便さとわかりにくさは、特筆に価すると思います。
人には優しくないなあ。

プラハ、ウィーンで路面電車の利便性にどっぷりと漬かって、東京にもあったんだよなあ、と感慨深く思いました。

ウィーンでは路盤が整備されいるのか、車輌側の性能が良いからか、見ませんでしたが、プラハでは、夜に路面電車の集電装置と架線がスパークする光景を見ました。

ああ、この路面電車のスパークの光と音!
幼い頃、自分が東京で確かに見ていて、そしてずっと完全に忘れていた光景。まさに脳裏にスパークが起きたように懐かしく蘇りました。
僕らより若い世代の人は路面電車のスパークって言っても、ピンと来ないんでしょうね。

人に優しいということでは、時代は低床車ということで、ウィーンも3~4割くらい、低床車という感じですが、ウィーンで両方乗ってみた感じとしては、昔ながらの高床式が、街の風景がよく見えて、いいですね。

熊本市電とかでも感じましたが、高床式だと、自動車の屋根よりも視線が高いので、街がよく見えるんですよね。

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チェスキー・クルムロフ
2006年09月13日(水) 07:48
今日(こちら時間9月12日)は、ウィーンから日帰りエクスカーションするには、ちょっと常識的には無理があるのですが、念願だったチェスキー・クルムロフ Cecky Krumlovを訪問しました。

当初の予定では6時前に起きて、6:25 Wien Franz-Josef駅発の列車に乗るつもりだったのが、寝坊して、7:34Wien Westbahnhof発に。
それでもホテルの朝食は放棄ですので、早出と言えましょう。

Linzまで行き、そこで国境の街Summerau行きのローカル線に乗り換えます。単線です。
途中、反対方向から来る列車との待ち合わせでずいぶん長く停まってました。
だいぶ遅れて、Summerauに着くと、チェコ国鉄の列車が定刻過ぎてますが、待っていてくれます。一本の線なのですが、国境で列車乗り換えです。

チェコ国鉄の年季の入ったCeske Budejovice(チェスケー・ブディヨヴィツェ)行きの列車、動き出してしばらくすると、次のKaplice駅で、代行バスに乗り換えて下さい、とのこと、Kapliceで全員列車から降ろされ、駅前に停まっているバス2台に。ただでさえ、Summerauの時点で15分くらい遅れていたのに、バスなんかに乗り換えて、Ceske Budejoviceから、Cecky Krumlovへの乗り継ぎは間に合うのだろうか?と不安になる。

Kapliceなら、このまんまこのバスでCecky Krumlovへ向かってくれた方が、Ceske Budejoviceまで行くより全然近いんだけどなあ、と思いながらも。国鉄の代行バスだから、そういうわけにも行かず。

悪い予感はあたり、Ceske Budejoviceに着いた時には、Cecky Krumlov行きの列車の出発時間はだいぶ過ぎてしまっています。
乗り継ぎは、(一応)取ってくれたんです。
でも、ほとんどの観光客はどの列車に乗ればよいか、英語のわからない駅員に聞いたりしているうちに、あ、あれだ、と思った2両連結のディーゼルカーは発車していくではありませんか?

周囲にいた、韓国人母娘、おそらく米国人と思われる若者の集団、これも米国人と思われる御一人旅のご婦人。
Oh No!状態。

Cecky Krumlovに行きたいのに、そんなに列車の本数はないんです。
バスを探そうかとも思いましたが、バスターミナルの場所がガイドブックに書いてあるところになく、探し当てても都合よく時間が合うバスがあるかどうかも不明。

ここまできたら、非常事態、チェコでは評判の悪いタクシーに思い切ってトライ。
運転手は800コルナだと言う。8×5=4000円かあ、ボるなあ・・・と思いつつ、数日前には23EuroとかのくだらないTシャツとか買ってるし、ここは一番、金を出すところか、と判断。タクシーは反対車線を使ってドンドン追い越しをかけて疾走します。
予定通りの列車だと1時間かかる行程を25分で到着。
当初の予定よりもだいぶ早く着いてしまいました。

おかげで、Cecky Krumlov堪能できました。
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日本人もっと多いかと思ったら、団体も個人旅行も東洋人は韓国人が多いですね。次いで中国語を話してる人たち。
ドイツ人も、アメリカ人も多いですね。日本人はマイノリティでした。あんまり興味ないのかな、Cecky Krumlov。

帰りは予定通りのバスでCeske Budejoviceまで。
Gmundに行きたいのですが、番線表示のところに「Bus」と書いてある。
これは、またいきなり、代行バスか?
と、インフォーメーションを訪ねると、「Busと書いてあるならBusです。駅の前に来ます。(何か特別な事でしょうか?)」という感じ。

その漠然と駅の前っていうのが、わからないんだよなあ。
Busという表示の発車予定のものは、私の乗ろうとしているものよりも前にも数便あるのだが、駅前に代行バスが来て、客が乗っていくような気配は見受けられない。

これはもう、旅の勘というしかないのだけれど、チェコ国鉄のロゴが書いてある表示を頼りに、バスが着くならこのあたりではないか、という駅前から次の交差点を曲がったところに、バスが停まっている。チェコ国鉄のカバンを持ったおばちゃんがいたので、「あるたなてぃぶ・ばすは、これか?」と聞き、Gmundまで行きたいのだが。というとまさにこのバスに乗れという。

一応、時刻表の定刻に発車にたバス、各駅停車の全部の駅に寄りますので、その度に幹線道路から狭い路地を入って、駅前まで行きます。
数駅そうやって進んで行って、やっと駅で列車に乗り換え、Gmund駅で、また、オーストリア国鉄が待っていてくれて、乗り込みます。

チェコ国鉄のシートが剥げて中身が出てるボロボロのディーゼルカー、どうもありがとう。・・・でもオーストリア国鉄の方が清潔でちゃんと走るし、安心、落ち着きます。
…と、無事ウィーンに帰って来ました。

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今日はMusikvereinへ!
2006年09月12日(火) 08:24
今日(こちら時間の11日)は楽友協会-Misikverein。
昼間は普通にウィーン観光しましたが、夜は、Musikverein大ホールに行きました。
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やっているのは、ウィーン・モーツァルト・オーケストラという観光客向けの催し物。
モーツァルト時代の扮装をして、モーツァルトの曲を演るという、ウィーンに来たことがある人なら、街中で客引きをやっているので、ご存知と思います。

Musikvereinに入ることが主目的ですから、まあ入れるだけでも良いかな、と思ってましたが、なかなか、ちゃんとした演奏でした。
クラリネット協奏曲を吹いた、クラの1番吹きの人などは、東京のオケなら首席が張れるのではないか、という感じ。
例えば、この9月だけでも、
9/1 Musikverein Goldnersaal
9/2 Musikverein Goldnersaal
9/4 Musikverein Goldnersaal
9/6 Musikverein Goldnersaal
9/8 Musikverein Goldnersaal
9/9 Musikverein Goldnersaal
9/11 Musikverein Goldnersaal
9/13 Musikverein Goldnersaal
9/15 Musikverein Goldnersaal
9/16 Musikverein Goldnersaal
9/18 Musikverein Goldnersaal
9/20 Musikverein Goldnersaal
9/22 Konzerthaus
9/23 Konzerthaus
9/25 Misikverein Brahmssaal
9/27 Misikverein Goldnersaal
9/29 Konzerthaus
9/30 Konzerthaus
というスケジュールでコンサートを演っています。

逆に言えば、こんなに、Musikverein Goldnersaalが空いているなら、もっとちゃんとした普通のコンサートをたくさん演って欲しいという気もします。
4月~10月までの季節労働ですが、さすがに、8月9月はMusikvereinが多いですが、10月あたりになると、ちゃんとしたコンサートも増えてくるのか、Konzerthausや、Hofburg(王宮)のImperial Palaceなどが多くなって来ます。
演奏は結構、普通だったのですが、さすがに客層はひどい。
観光客ばっかりですからね。演奏中もフラッシュ炊きまくり、しゃべるは、鼻かむは、という感じで、なんか聖地が冒涜されている印象もあるのですが。
それが主催者側も、どうぞどうぞ、一見さんこそWelcomeの観光演奏会です。

初めてMusikverein入りましたが、音が良いのは、シューボックスだ、壁の装飾の彫像が良いのだ、内装の木の乾燥が具合が…とか、色々言われ、ホールそのものが楽器である、というような「奇跡」のホールという言われ方をします。
が、今回入ってみて、秘密はこれなんじゃないか!…と思ったのは、地上階のレベルはエントランスホールとなっていて、奥に進んでも、ホール入り口にはなりません。
平土間の1階席が建物は2階にあって、1階席の下が空洞になっている。
歩くと結構軋む1階の木の床。この下が空洞になっていて、ある意味ホール全体が空中にある形になっています。
この1階席の床が、地面と直接接して繋がっていない点、これは、ほかに試したところがないからわからないですが、1階客席の木の床の下にもう一つ共鳴箱がある、という構造は、もしかしたらこれが「奇跡」の要因かも知れない、と思いました。
どこかの物好きが、レプリカを作って試してみてもらいたい気がしますが、日本ではこれだけ大きな木を使った建物は、たぶん消防法で許可されないのでしょう。

昼間は、普通に観光、シェーンブルン宮殿や、旧王宮を見て回りました。
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これはコラージュではありません。
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展示物の中に、ハプスブルグ帝国の当時の版図の詳細な地図が展示されていて、これのレプリカ欲しいなあ、と思いましたが、ポーランドの南部、チェコの一部、ハンガリー、スロベニア、クロアチアなどが、オーストリア領の版図に入っている地図は、周辺国の感情を考えると、現代ではちょっと禁止モードなのかな。

旧王宮を見た後、Konzerthausを見に行ってみると、入り口が開いてて、誰も人がいなくて、怒られたら退散しようと、入っていくと、大ホール客席内部まで、誰にも会わずに入れてしまったので、写真を。
Konzerthausの方が、Musikvereinよりも、立派なホールという意味では立派なホールなんですけどね。
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デーメルやザッハーは、ポンニチを中心として、空き席待ちで立ってる人とかいたので、インペリアルホテルのカフェへ。
室内席には、私のほかに1人しか客がおらず、ゆったりと、カフェとインペリアル・トルテを堪能しました。
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グスタフ・マーラーの墓に詣でる。
2006年09月11日(月) 05:29
プラハからウィーンに出て来て、あまりの人の多さに、ちょっとあてられたこともあり、今日(こちら時間の10日)は、日曜日でお彼岸も近いし、お墓参りに精を出すことにして、いきなり郊外へ。

Strassenbahnの71番に乗り、ずーっと行って、ウィーン中央墓地、32A区。
ベートーヴェンの墓と、シューベルトの墓が、モーツァルトのこれは正確には墓ではなくモニュメントというべきなんだろうな…、を囲んで立っていて、脇にブラームスの墓、その隣にヨハン・シュトラウスの墓があるところです。
入り口に花屋があって、激しく売り込んでいます。

一応、花を買って、それぞれの墓に供えて来ました。
朝の中央墓地は有名な並木道がきれいで、人が少なくて気持ちよい感じ。
墓地で気持ちよいというのも変だが、緑が多くて、なんかそう感じたのだから仕方ない。

そして、71番を終点まで引き返し、そこでStrassenbahn-D線に乗り換え、これまた終点まで延々と乗ります。
Nossdorf行き、と方向幕に書かれていますが、実際にはNossdorfのひとつ先に、方向転換するためのロータリーがあるBeethovengangがホントの終点。
要はハイリゲンシュタットですね。
ベートーヴェンが田園の構想を練ったという、Beethovengang・ベートーヴェンの小道、という道があって、小川(と言っても渋谷川のような溝ですが)に沿った道をしばらく歩く。
普通の郊外の住宅街ですが、ちょっとだんだん傾斜がきつくなってきて、小川らしくなり、等々力渓谷っぽくなって来ます。
ベートーヴェンの像があったり。

そして、ガイドブックの地図がちょっと不正確で迷いかけましたが、ハイリゲンシュタットの遺書の家、として公開されている、ベートーヴェン・ハウスを訪問。
ハイリゲンシュタットの遺書を書いたときに住んでいた家ですな。

さてそこから、Grinzingはすぐ近くです。
38番の終点Grinzingの電停を過ぎて、この角を曲がれば、Grinzing墓地だが? 
なんか個人宅に入って行く道か?と思われる道で、しばし地図と現場をにらめっこ。
すると、むこうから、老夫婦が歩いてきて、おじいさんが、
「Grinzing Friedhof を探しているのか?」
「Ja」
「ここを曲がって、それから右だ」
「Na Ja Danke Sheon!」
「ぐすたふ・まーらー か?」
「Ja!」
そのご夫妻も墓地に入ってこられたので、私のようなポンニチがうろうろしていれば、マーラーの墓を探しているに違いない、と、ご老人、これまでも何度も教えているのかも。

ツイードのジャケットに、なぜかニューヨーク・ヤンキースのキャップをかぶっていて、ちょっとお茶目なおじいちゃんでした。
かく言う私も、千葉ロッテ・マリーンズのキャップをかぶっていたので、人のことは言えない。

そう、グスタフ・マーラーの墓を探していたのです。

墓地の入り口には、著名人とその墓番号のリストが貼られています。
Gustav Maher は Gruppe6の7列の1番、Arma Mahlerは、Gruppe6の6列の7番、と書いてある。
Gustavの墓はすぐに見つかりましたが、Armaの墓がなかなか探せなくて時間食いました。
Gustavの隣の列のはずだ、と同じところをうろうろ。
結局、何度も見たはずのところにありました。
Gustavの墓と背中合わせの列ですね。
この辺はマーラー墓参ガイドを地図付きで、サイトにアップして、今後の皆さんの参考にでもしてもらおうか、と思います。

38番の終点から市内に帰ってきてお昼。
午前中で、ウィーンの南郊の中央墓地と、北郊のハイリゲンシュタット&Grinzingを回れて、良かったです。
昼飯はブルク劇場の隣にある、マーラーもよく立ち寄ったというカフェLathausで。

Operに戻ってくると、ちょうど、2時のシュターツ・オーパーのガイド・ツアーに間に合いました。
ガイドツアーは、玄関入ったところに、English、Deutche、Espagnol、日本語、中文、という札が立っていて、そこに集合。
わたし、今までツアー旅行って一度も経験がなく、個人旅行しかしたことないので、日本語のガイドとかって、ちょっととても気恥ずかしいのですが、見栄を張って英語のツアーに参加しても仕方がないので。
さすがに、ポンニチばっかり、という恥ずかしい状態にはならず、Englishに集まった人が、日本語の倍くらい。中文はお客一人で、マンツーマンのガイドツアー。
Espagnolもそれなりの人数。Deutsceも結構います。
フランス人は海外旅行を全くしない国民性なので、Frenchは需要なし、なんでしょう。
日本語ガイドツアーは、日本人の観光ムードをよく考えてくれているんだと思いますが、いくらでもやとえるだろう日本人スタッフではなく、日本語の話せる現地人の女性がガイド。
40分間、丁寧にお話を聞くことができました。
昨日、お客で来てるんだけど、やっぱり説明聞くと面白いですね。

その後、16:30開演で、フォルクス・オーパーで「ジプシー男爵」
これは面白かった。
フォルクス・オーパーの建物は名前のとおり、シュターツとは対照的で、場末の映画館みたいな感じ。

今日の写真は代表してこれだけ。また後日。
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プラハからウィーンへ-2
2006年09月10日(日) 08:31
国立歌劇場での「ラ・ボエーム」。
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指揮はフPhilippe Jordan。
日本では無名と言って良いと思いますが、シュターツ・オーパーだけでなく、ウィーン・フィルとしてのオーケストラ・コンサートも振っているようですね。
期待が非常に高かったからかもしれませんが、これが、結構、傷のある演奏でした。
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ウィーン・シュターツ・オーパーで、傷のある演奏って、言っていいのか、こっちが間違っているのか不安になりますが。
全般に木管のピッチがアレっと思う箇所が多く、クラリネット2本のオクターブ、ピッコロ・フルートのオクターブ、など、明らかにオクターブが嵌っていない箇所があり、さらに、一番の見せ場、ミミが死ぬところの、ブラスの強奏の最初の入りの音が混濁。ここのために引っ張ってくる「ボエーム」であるから、ここではずされては、何とも。
歌手は健闘してましたが、指揮者の指示なのか、ウィーン・シュターツ・オーパーではこれがスタンダードなのか、オケは結構遠慮なしに、フォルテで鳴らしており、こういう風に演らせてくれたら気持ちいいだろうな、と思いつつも、歌手の声はオケの音にま埋没し、まったく聞こえないところも。
私の数少ないオペラ伴奏経験では、とにかく、抑えられるので、こういうのも、本場で「アリ」なのか、と。ちょっと新鮮でした。
日本で劇伴を演る時は、たいてい、歌い手側が主催者で、こちらは雇われで行くから、バランスチェックとか、歌の方の人が仕切るから、とにかく抑えられますからね。

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プラハからウィーンへ-1
2006年09月10日(日) 07:08
こちら時間の今日9日は、プラハからウィーンに移動。
ホテルから、石畳の道をガラガラとスーツケースを引っ張り、メトロの駅まで、前日の歩き回った土地勘でなんとなくこっちではないか、という方向に行くと、迷わずメトロの駅に到着。
メトロ・トラムの切符は24時間券を昨日の午後から使い始めているので、今日の午前中まで有効。
昨日、結構、メトロ、トラムに乗ったのに、ガイドブックには頻繁に検札が来ると、書いてあったが、全然出会わなかった。
しかし、今朝、メトロC線とメトロA線の乗り換え通路で、検札あり。チケットを見せて、無事通過。
さらにメトロA線に一駅乗って、プラハ中央駅で降りると、ホームで、怪しい風体のおじさんに呼び止められる。
薄汚れた汚いジャンパーを着た、ヒゲもじゃのおっさんである。
チケットを見せろ、という。
如何にも怪しげで、新手のピックポケットかと思って身構える。チケットを見せるが納得せず、こっちに渡せという。
剥げたバッジを見せ、正式の係員だと、強調するがそのバッジが胡散臭げで、いよいよ怪しい。
しかし、チケットは必ず返す、というから、渡すと、OK行って良し、という。
乗換駅通路の係員はちゃんとネクタイをしていて、スマイルを浮かべた紳士だったので、眼前のコイツはニセモノに違いない、と身構えてしまった。
彼は本当にプラハ交通局の係員だったのか? 無罪放免となった後も、いまだ疑問である。

プラハ中央駅はで、国際路線のチケット売場で、レイルパスのヴァリデイトをしてもらう。
パスポートNo.と使用開始日は、駅係員が書くので、絶対に自分で書いてはいけない、とパスの説明書きに強調されているが、窓口のねえちゃんは、スタンプ捺すだけで、後は自分で書け、という。

プラハからウィーンへの国際列車は、案外少なく、午前一便、午後一便。
私の乗ろうと思っていたICは、チェコ国鉄の車輌で運行されます、と注意書きはあったが、私の過去の欧州鉄道旅行の一般的な印象に鑑みても、思いのほかボロっちい列車であった。一等のパスを買ってあったので、一等車に乗るが、なんかボロイなあ。
二等車は6人コンパートメントで、こっちの方が落ち着くかも、という印象。
結構、満員に近い状態。
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まあ、それでもとりあえず、一路ウィーンへ。特急だが4時間半の旅で結構時間がかかるのである。
列車のトイレの注意書きは、チェコ、露、仏、独、伊の5ヶ国語。イギリスとは鉄道の往来がないから、ということからか。
ブレツラフで、チェコ国鉄の機関車をオーストリア国鉄の機関車に付け替え、しばらく走行すると、チェコの国章の下にPOLICIEと書かれた肩章を付けた警官2人が来て、パスポートチェック。
いやにじっくりとためす、すがめつ、パスポートを見て、スタンプ。
5分もしないうちに、今度はオーストリアのPOLIZEI3人が来て、同じくチェック。
ヨーロッパの鉄道旅行で、こんなにちゃんと国境検問を受けたのは初めてである。
チェコもEUに加盟したとはいえ、かつての鉄のカーテン国境。ちゃんとやる習慣なのだろうか。
チェックを終えた警官は私のすぐ後ろの席にオーストリア警察官3人が座り、その後ろにチェコ警察官2人が座り、終着駅ウィーン南駅まで、もう停まらないから、乗っていくのだろう。
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さて、ウィーン到着、トラム(ではなく、シュトラーセン・バーンですね。)のDに乗りOperまで、後はケルントナー通りを歩いてホテルへ。

そして、夜は、国立歌劇場での「ラ・ボエーム」。
これについては、項を改めて。
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今日はプラハ三昧。チェコ・フィルも。
2006年09月09日(土) 07:33
さてさて、今日(現地9月8日)は、まさにプラハ三昧の一日。

美しい街ですなあ。

しかし、プラハという街は、普通の市民生活もあるのだとは思うが、観光客が行くエリアは、道の両側すべてが土産物屋、レストラン、カフェ、両替屋。
普通のオフィス・ワーカーとかの市民はいるのか?と思ってしまう。
観光客はポンニチも多いが、米人も多い。英人かも知れんがイングリッシュ・スピーキング・ピープルですな。アインマールとか、せんぷれなにがし、とか言っている連中もいるので、ドイツ人は元より、イタリア人もいるのか。イタリア人なんて自分の国に素晴らしい観光地あるのに、プラハなんか来るんだ、と不思議な感じ。

一通りの普通の観光スポットは全部回ったと思う。
スメタナ博物館へも行き、ドヴォルザーク博物館も行った。
スメタナ・ホールのある市民会館のガイド・ツアーは毎水曜日だけ、とのことで、スメタナ・ホールには入れず。仕方なく市民会館のカフェで昼食。
さらに地下鉄でヴィシェフラドに足を延ばし、ヴィシェフラド墓地に、スメタナとドヴォルザークの墓参。
ついでにズデニェク・フィビヒ(知らないか)の墓にも手を合わせ、ヤン・クーベリック、ラファエル・クーベリック父子は合祀というのか、パネルに名前が刻まれているだけだが、一応手を合わす。カレル・アンチェルの墓もあったので、そちらにも。
墓地を守る、聖ペトロ聖パウロ教会の毎正時のカリヨンは、ヴィシェフラドにあるんだから、ヴィシェフラドのテーマかと思えば、さにあらず、モルダウのメインテーマでした。
2オクターブ、クロマティックで鳴るカリヨンですなあ。
プラハ中心街にトラムで帰ってきて、またフラフラ。
カレル橋は結局2往復したか。

さらに、夜はネクタイ姿に着替えて、ドヴォルザーク・ホールで行われた、ズデニェク・マーツァル指揮のチェコ・フィルのシーズン・オープニング・コンサートを聴く。
プラハはホントに田舎街なんだけど、なんでこんなに上手いオケがあるのか。
プログラム冊子には先月亡くなった首席ホルンのティルシャルの追悼文が掲載されている。
それでも、ティルシャル亡き後のホルンセクションも上手い。
チェコフィルのシーズン・オープニング・コンサートは、毎年必ず、オール・チェコ作曲家プログラム。
今年は、ドヴォルザークの「チェコ組曲」とヨゼフ・スークの「夏物語」という渋いプログラム。
数年前に、パリのシャンゼリゼ劇場で、ビエロフラーベク指揮のフランス国立交響楽団の定期で、ヤナーチェクの「死者の家から」組曲、ドヴォルザークの6番という、これも渋い演奏会を聞いたのだが、当たり前の話だが、チェコ・フィルのチェコものは、なんと言うか、自然体でスゴイはまり方をするものだなあ、と。
アクセントの加減とか、合いの手の出っ張り引っ込み…「らしくやろう」としているわけではないのに、「これしかあり得ない」というタイミング・バランス・アゴーギク。

「チェコ組曲」では、カメラマン、スタッフ全員日本人のチームが入っていて、EXTONから出るのかな。
写真は300枚も撮ってしまったので、今日は整理できないから、追々。
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とりあえず2枚
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プラハに無事到着!
2006年09月08日(金) 06:32
さて、無事プラハに到着し、ホテルからのダイアルアップも繋がりました。
夜に着いた訳ですが、プラハという街は22時過ぎでも、カレル橋のミニチュア(「友情」とかは書いてないけど)とかTシャツとかキーホルダーとかわんさか置いた土産物屋さんはみんな開いているし、観光客がうようよ歩いていてちょっとビックリ。
シャルル・ド・ゴールからのエール・フランスは、寂しい飛行機だったですねえ。プラハなんてそんなもんなんですかね。

プラハ空港のATMの場所がネットの情報やガイドブックと全然変わっていて、ちょっと慌てました。

ホテルの前から見た聖ミクラーシュ教会。
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