日々の雑学 ●●●
日々、ふと思ったことを書いていきます。   ・・・千葉ロッテ・マリーンズ、菅野よう子、再生可能エネルギー、自然環境、里山、棚田、谷津田、日本近世史、歴史小説、時代小説、クラシック音楽、・・・などなど。
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早春の谷津田
2006年02月28日(火) 22:44
早春の千葉市の谷津田には、絶滅危惧種のニホンアカガエルの卵塊が、びっしり。

早いものは、そろそろ、おたまじゃくしになりそうです。
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トリノ・オリンピック総括
2006年02月27日(月) 12:40
事前の楽観ムードが良くなかったのか、荒川静香選手のすばらしい金メダル一個だけの結果となった。

冬季オリンピックのデータについては、こちらのサイト「冬季オリンピック・メモリーズ」
が詳しくて参考になる。

トリノ冬季五輪日本選手団の遅塚研一団長は、
「メダル数については最低の結果。厳粛に受け止めたい。5個という目標を達成できずに日本の皆さまには申し訳ない」と反省の弁を述べた。
とのことだ。
また、

日本オリンピック委員会(JOC)が独自調査を進める必要性を強調。冬季競技のナショナルトレーニングセンター構想も、長野市や北海道帯広市を候補に進めているとし、国内で室内スケートリンクが減っている現状には「行政などに働きかけていきたい

ともしている。

しかし、メダル一個というのは、過去の冬季オリンピックから見れば、珍しいことではない。

選手の好不調はあるもの、問題なのは、韓国との対比である。

国別メダル獲得数はこちら

日本は112人の選手を送り込んで、1個のメダル。
一方、韓国は44人の選手で、6個の金メダルを含む11個のメダルを獲得した。

1選手あたりのメダル獲得率で行けば、韓国は25.0%。
日本は0.9%と、その差は28倍である。

欧米選手に有利なルール変更とか、体格差とか、冬季オリンピック種目には金が掛かる、など、色々エクスキューズされるが、これらのエクスキューズは、韓国の好成績の前には、全く根拠を失う。

カナダは、次回開催国としての面目をほどこし、カナダとして過去最多の24個のメダルを獲得。

韓国は2010年大会開催地に立候補してバンクーバーに敗れた、平昌(ピョンチャン)が2014年開催地に再度、立候補しようとしている。

2014年開催地には、韓国の平昌(ピョンチャン)のほか、
ソフィア(ブルガリア)
ソチ(ロシア)
ザルツブルク(オーストリア)
アルマトイ(カザフスタン)
ボルジョミ(グルジア)
ハカ(スペイン)
が立候補している。

ロシアも冬季オリンピックでの活躍のわりに適地が少ないのか、冬季大会は開催したことがない。
メダルの獲得実績からすると、スイスも戦後の1948年にサンモリッツで開催して開催していないし、今回金メダル最多のドイツも、1936年にガルミッシュ・パルテンキルヒェンで開催して以来、やっていないし、スウェーデン、フィンランドも開催したことがない。

札幌の再立候補などは、おこがましいというべきか。
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ポジティブ鳥肌 続報
2006年02月26日(日) 22:22
日本テレビのインタビューを見ていたら、荒川静香選手が、「鳥肌が立つ滑り」を目指した、あるいは、「鳥肌が立つ滑りだった」等の発言をしておりました。
従って今事例は、荒川静香選手にのトリノ・オリンピックに関する限り、
共同通信記者の「荒川、鳥肌立つ「金」の演技」は、荒川選手の心情を深く洞察した、鋭い記事ということもできるわけで、誤用とばかり決め付けられない微妙な問題となりました。

実際、本人が、鳥肌が立つような演技をしようとしていたことが事実であることが判明したので、それを見て「鳥肌が立つような素晴らしい滑りだった」と書くことのどこが間違っているのだ、と、開き直られると、困るわけです。
間違ってないから。

朝日新聞広報部からは、「記事に対するご意見」というフォームで送ったら数時間後に丁寧な返信が来ました。

ご指摘のように、「鳥肌立つ」については、日本語の揺れの中でも
目立つ存在だと思います。
なるべく正統な日本語を使うことを心がけていますが、
時としては、若者の感覚にひきづられることがあるようで、
改めてご指摘を戒めとしたいと思います。
今後とも朝日新聞をよろしくお願い致します。


とのことです。
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荒川、鳥肌立つ?「金」の演技
2006年02月24日(金) 13:55
オリンピック関連のことは書かないようにしようと思ってましたが、どうしても気になって仕方がないので、この件だけ書きます。

本日2月24日付けの産経webアサヒ.comなどに、共同通信配信の記事として、

荒川、鳥肌立つ「金」の演技 クライマックスで一気
 鳥肌の立つような素晴らしい滑りだった。<後略>

・・・という記事が出た。

「鳥肌が立つ」というのは、最近、数多く出版されている「正しい日本語」「日本語の乱れ」関連の諸々の書籍でも、判り易い例としてとりあげられているように、
何かに嫌悪感や恐怖感を感じて、ゾッとする場合、にしか使えないのであって、良い意味で使うのは誤用である。

巷間、一般人は、「鳥肌が立つ」という表現を、「すごく感動した」場合の表現として日常的に使うわけだが、
通信社、新聞社の記者が書き言葉として、「鳥肌が立つような素晴らしい・・・」は、ないと思う。

記事を見た瞬間に、こちらが「鳥肌が立つ」思いをした。

せっかくのビッグニュースに水をさされた思いである。

そうこうしているうちに、今、アサヒ.comにリンクを貼ろうと思ったら、
荒川、鳥肌立つ「金」の演技 クライマックスで一気 ・・・という見出し部分が、
観客総立ち「金」の演技 荒川クライマックスで一気
に、

記事本文冒頭の、
鳥肌の立つような素晴らしい滑りだった。
が、
満員の観客が総立ちになる素晴らしい滑りだった。に、訂正されている。

さすがに朝日新聞は気が付いて直したのだろうが、産経webの方は、まだ、2/24 13:53現在、訂正はされていない。

国民的大ニュースで、全国紙webサイトに書かれる影響力は大きく、重大性を認識してもらいたいものだと思う。
list 荒川、鳥肌立つ?「金」の演技の続きを読む
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白石一郎 「怒涛のごとく」
2006年02月23日(木) 13:02
いささか、古い著作になるが、白石一郎の「怒涛のごとく〈上〉」「〈下〉」を読む。



以前から、白石一郎作品の多くに親しみ、氏の「海」と「九州」への拘りには敬意を表していた。
一昨年亡くなられたが、メディアがあまり取り上げられなかったのは残念である。

「怒涛のごとく」は、日本では近松門左衛門の「国姓爺合戦」の主人公として知られている、鄭成功の物語である。

しかし、恥ずかしながら、私はこの「怒涛のごとく」を読むまで、鄭成功については、「明末期に明の滅亡を阻止するために清軍に抵抗したヒーロー」という程度の知識しかなかった。

白石一郎はこの「怒涛のごとく」でこの鄭成功の生誕から死に至るまでの39年の生涯を描いている。

しかし、鄭成功の物語は名前とは反して「成功譚」ではない。
「破滅」への物語である。
その部分の救いがたさは、如何ともしがたく、「成功譚」としては、ほぼ上巻全部を費やして書かれる、父親の鄭芝龍の物語の方が、魅力的である。

これは、白石氏に罪のある話ではなく、鄭成功という存在がそうであったのだから、仕方のないことなのだが。

鄭成功は明朝末期、徳川政権が地盤を固め始める時期に、肥前平戸で、明人の海商・鄭芝龍と日本人の妻の間に生まれる。

明は、鎖国政策を取っており、海外との通商は建前は国禁であって、鄭芝龍、他、明-日間の貿易に携わるものは、明国にとっては犯罪者であり、明の保護の外にあるものたちであった。

鄭芝龍はその環境の中で、一介の海商から、自らの力と度量で、福建に根拠地を構え、国禁の海外通商と海賊行為に関わりながらも、明朝から正式な将軍として認められるまで勢力を拡大していく。

一方日本に生まれた鄭成功は、父が地盤を築いた後に、明に迎えられ、科挙の文官試験に合格するための学生として勉学に邁進する。

父・鄭芝龍が、冷静な目で明国の衰亡を達観し、「鄭一族一党」の繁栄のためには、場合によっては必ずしもパートナーは明王朝ではなくても良い、と割り切っているのに対して、息子・鄭成功は、すでに彼が表舞台に立つときには、実体が無くなっている明王朝に対し狂信的なまでの忠誠を尽くそうとする。

歴代、中国王朝の易姓革命というものは、天が見限られた王朝は天の命によって、革えられるとしている。

革命とは、天が「命を革(か)える」ことである。
王朝の衰微については滅ぶべくして滅ぶのだ、という観念がある。

清王朝は非漢民族の征服王朝であるからと言って、やはり、この明末の状況は、易姓革命が起きるべくして起きた、ということであったと思う。

前王朝への追慕を美徳とする考え方は、三国志にみられる劉備玄徳の美化にも見られ、これはこれで一つの美徳であったのかもしれないが、一般には易姓革命を「仕方がないこと」として受け入れる変わり身、は彼の国の道徳観であるように思う。

その中で、鄭成功の滅亡する明朝への執着は、ある種、現実離れして、パラノイア的であり、白石一郎の筆も鄭成功のパラノイア的な面や、精神障害の症状を隠さず美化せず書いている。

鄭成功は明朝譜代の臣でもなく、明から見れば、一介の違法な国外滞在海賊の子でしかなく、明朝からは何の恩義も受けてはいないのである。

しかし、著者のあとがきにも、解説にもあるように、鄭成功は「半日本人であるが故に」己のアイデンティティーを明朝に求め、それが狂信的な抗清復明運動の原動力になったのだろうし、動き始めてからは、もはや精神のバランスを保つ唯一の拠り所となっていたのかもしれない。

従って、鄭成功は確かにある種の「ヒーロー」ではあるのだが、ここに書かれた鄭成功の事歴を知って、鄭成功のファンになる人は少ないのではないだろうか。
主人公に共感を得ることが出来ずに進行していく物語は正直言って辛い。

とはいえ、吉川英治文学賞を受賞したこの大作である。
何となく「国姓爺合戦」という言葉は学校で聞いた覚えがある、が・・・という人にとっては、日本に縁の深い鄭成功の物語を知る上では、非常に意味のある著作だろう。

また、白石一郎氏が訴えつづけていた、海への開かれた視点で、東アジアの中での、わが国の存在を見直す、という意味でも、「鄭成功」の物語は現代日本人が知っておかなければならない物語であるように思う。

明末の話を読んだので、今度は、清末を扱った浅田次郎氏の「蒼穹の昴」を読もうか、と思っているが、最近、BookOffで中古を買うのに慣れてしまい、なかなか書店で買う気が起きないので、週末以降か。
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米村圭伍 「面影小町伝」を読む
2006年02月22日(水) 17:17
米村圭伍の「面影小町伝」を読む。



「退屈姫君伝」、「退屈姫君、海を渡る」で爽快な活躍をする、お仙の事後譚で、執筆巡から行くと、「風流冷飯伝」、「退屈姫君伝」に続く3部作の完結編ということになるのだが、従来の語り口とはガラっと趣きが変わって、禍禍しい上にもおどろおどろしい、ある意味、救い難い辛い物語となっていてびっくりする。

著者は敢えて、思い切って違った作風にトライし、伝奇小説の伝奇的部分を強調したものにしたかったのだろうが、米村圭伍の良さを、軽快飄々たる語り口と、登場人物の屈託のない「人物の良さ」に求めるとすれば、この作品は著者にとっても、読者にとっても、大いなる試練となるだろう。

一方、あらかじめこれを伝奇小説なんだと、事前に認知して読むとしても、田沼意知とお仙の対決を軸にするこの話は、伝奇小説にありがちな、血の怨念、妖刀の超能力など、いわゆる伝奇小説の備える、「常套手段」が次々に出てくる印象もあり、最後にはついに「山窩」まで登場するとあっては、「何だかなあ」と言った感じです。

確かに「退屈姫君伝」の手法だけでは、行き詰まるとは思いますが、何もここまでしなくても良いのでは、と思ってしまいました。

「山窩サンカ」については、別項を立てるべき大きな課題ですので、他日に譲りたいと思いますが、「山窩(サンカ)」について、その言葉自体、聞いたことがない、まったく知らない、という方は、検索エンジンででもお試しください。

いずれにしても「退屈姫君伝」は面白かったなあ、と改めて思わされる一編でした。
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逢坂 剛 「じぶくり伝兵衛」-重蔵始末(2)-を読む
2006年02月21日(火) 15:46
逢坂 剛の「じぶくり伝兵衛」-重蔵始末(2)- を読む。



既に他の分野で、名を成した逢坂剛氏が敢えて挑む、初の時代物、「重蔵始末」シリーズの第2作。

主人公の近藤重蔵は、後に蝦夷地踏査をして、エトロフ島に「大日本 恵登呂府」の標柱を建ててきた近藤重蔵なのだが、この近藤重蔵が御先手組与力の時に火付盗賊改方の与力だったことに、興味を覚えた逢坂氏が、「時代小説を書きたいというよりも近藤重蔵を書きたかった」ということで、手がけられたシリーズ。

蝦夷地探検が近藤重蔵25歳のときだから、本当に若いときの話という設定になる。

読後感としては、シリーズ第1作の「重蔵始末」と併せての感想ということになるが、火盗改と言えば、まず池波正太郎の「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵があって、この近藤重蔵の話にも、長谷川平蔵は直接は登場しないものの、同時期に火盗改の組頭であることになっている。

当然、江戸町奉行ものと火盗改ものとの違いを際立たせないと、火盗改を描く意味がないわけで、ここでの近藤重蔵も若いけれど、深謀遠慮にして、峻烈果断。
上に厳しく、下に優しい、ということになるのだが、どうしても、近藤重蔵の人物造形が、倣岸・無頼で、伝法なところなど、長谷川平蔵と相似形に思えて仕方ない部分がある。
謹厳実直な火盗改を書いても面白くないだろうから、仕方がないと言えば仕方ないが。

21歳である近藤重蔵が、寡黙にして、泰然自若としている以上、バイ・プレイヤー達の人物造形をもう少し際立たせて、動かしていかないと、物語を引っ張る力に欠けるのだが。。。
橋場余一郎、根岸団平、おえん、為吉らのバイ・プレイヤーが今ひとつ、物語を引っ張っていくまでの人物造形の力に欠ける気がする。

逢坂氏の「スペインもの」は直木賞受賞作となった「カディスの赤い星」しか読んでいない(つまり正直言うと「カディスの赤い星」でちょっと辟易した)のだが、スペインもので既に文壇内に確固たる地位を築いた逢坂氏が、あえて時代物に挑戦する意味とは?

父君である、時代小説挿絵画家の第一人者・中一弥氏との「父子共演」の実現という美談はあるものの、はてさてどうなることか。

既刊のシリーズ3作目はまだ文庫になっていないので、読んでいないが、作者は重蔵の波乱万丈の生涯を描きたい、そうなので、火盗改与力としての捕り物帖は、早晩終わって、蝦夷地御用取扱になっての蝦夷探検と、書物奉行への栄進と、大坂弓奉行への左遷、さらに息子の刃傷沙汰で、近江に廃流、というところまで、行くのだろうか。

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不耕起栽培について補足
2006年02月20日(月) 16:29
昨日、不耕起栽培について、さらっと書いてしまいましたが、若干補足します。

水稲の不耕起栽培というのは、文字通り、田んぼを、耕さず、掘り起こさず、に栽培することなのですが、成田市の岩澤信夫先生が、提唱され、各地で実績をあげています。

サイトとしては、
日本不耕起栽培普及会
田んぼ博士の応援隊
に詳しく掲載されていますが、
かつて経験した、冷害や、タイ米輸入騒ぎとなった不作の年に、周囲の田んぼが収量=0であるにも関わらず、いくつかの田んぼが被害を受けず、その田んぼは田植え機を使わない、昔ながらの植え方をしていることがわかったのです。

農業機械に合わせた苗作りが結果的に、気候にも、害虫にも弱い稲を作ってきてしまったのではないだろうか、という視点に立った試みです。

昨年刈った稲株をそのまま残し、5~5.5葉にまで、外気温で育成させたしっかりした稲苗を植えると、冷害にも、病気にも、害虫にも強く、また、一株から獲れる収量も多く、一粒一粒のモミの中のお米の入りもしっかりしたものができる。
というものです。
で、なおかつ、米は美味いらしいのです。

岩澤さんは、農機メーカーと、不耕起栽培にあった田植え機の製作にも取り組み、いくつかの農機が実用化されいます。
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メダカが田んぼに帰った日
2006年02月19日(日) 22:14
野生メダカの動向に興味を持っている私としては、気になる書名だったので「メダカが田んぼに帰った日」を読む。



内容的には、水田の不耕起栽培(耕さないで米を作る)が主題で、「メダカ」自体は添え物だが、もちろん水田の不耕起栽培にも、非常に興味があったので、その経緯がわかり、非常に参考になった。

先日の、ちば谷津田フォーラムのシンポジウムでも、「不耕起栽培」も事例発表にあったので、話が繋がった。

著者の金丸弘美さんは「NPO法人メダカの学校」の理事もされているとか。


「NPO法人メダカの学校」のサイトは、去年の6月から行事予定が更新されていない、など、現在、どういう活動されいるのか不明ですが。

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安部龍太郎 「金沢城 嵐の間」を読む
2006年02月18日(土) 14:22
戸部新十郎の「前田利常」にも、当然ながら、太田但馬守長知の誅殺のことは出てくるわけだが、この事件を太田但馬守を主人公にして扱った、安部龍太郎の「金沢城嵐の間」を読む。



この「金沢城嵐の間」は6編からなる短編集なのだが、各編は一貫して、非常に興味深いエピソードを取り上げている。

加賀藩における太田但馬守長知誅殺と同様に、戦国の余風が収まり、徳川幕藩体制に移行していくなかでの、重臣と主君との葛藤(対立)、というテーマにスポットをあてているのである。

6編の舞台となっているのは
筑後柳川 田中吉政家
伊賀、筒井定次家
越前松平家
加賀前田家
萩毛利家
豊前中津細川忠興家
である。

いずれも戦国の武士(もののふ)のあり方、徳川幕藩体制の管理社会の中での武士のあり方との如何ともし難い溝を浮き彫りにする。

安部龍太郎は、「信長燃ゆ」はともかく、「風の如く 水の如く」で黒田如水を扱い、「関ヶ原連判状」で、細川幽斎を扱って、戦国史の名バイ・プレイヤーにスポットを当てる点が上手く面白い。
「生きて候」でも本多政重を取り上げるあたり、なかなか目の付け所が鋭いと思う。

これらの長編への原型、とも言える「戦国余話」が「金沢城嵐の間」にも萌芽として見られる。
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宮部みゆき 「ぼんくら」を読む
2006年02月17日(金) 14:24
宮部みゆきの「ぼんくら」(上)(下)を読む。



宮部みゆきについては、舞台を現代に置いたものは、恥ずかしながら全く読んでいない。
あくまで、舞台を江戸時代に置いたものばかりを読んでいる。

当然、宮部みゆきであるから、この「ぼんくら」に関しても、「ミステリー」と、されているし、当然「ミステリー」だろうと、身構えて読み始めるわけだが、主人公というか、狂言回しというか、の井筒平四郎と、鉄瓶長屋を巡る人々の、前半のエピソードは、あたかも江戸市井の人々の哀感を綴った、連作短編なのではないか・・・と思わせる筆運びではじまる。

解説にもあるが、この市井短編かと思わせるエピソードの数々が、ミステリーへの伏線であることに、読者は気づかされ、後は怒涛のように読ませる。

なかでも、井筒平四郎の妻の甥である河合屋弓之助が登場してから、俄然、展開は勢いを増し、テンポアップする。

宮部時代作品でおなじみの回向院の茂七親分は、茂七親分自身は登場しないが、茂七ファミリーとして、配下の政五郎、と、記憶少年「おでこ」が登場する。

物語が一気に加速し、光を放つのは、超計測少年・河合屋弓之助と、超記憶少年「おでこ」の2人の少年が勇躍するからである。

鉄瓶長屋の人々も、それぞれに江戸市井短編小説の登場人物として、十分な魅力を備えている上に、軸である大きなミステリーの中で、重要な役回りを振られている。

読者が「本格ミステリー」を読まされるのだぞ、と身構えているところに、本当にこれは「本格ミステリー」なのだろうか? と違和感を感じさせると同時に、江戸市井小説としても十分読ませる吸引力を保持しつつ前半は展開し、そして後半の「やっぱり本格ミステリーでした」という形に持って行くあたりは、やられた、という感じがする。

若干、登場人物が多すぎて、錯雑する感はあるものの、井筒平四郎や、弓之助、おでこ、お徳、佐助などの人物像には惹き込まれる。

小平次の「うへえ」というリアクションも、全編を通じて、重要なリズム感を与えている。

弓之助と「おでこ」が光彩を放っているとはいえ、「ぼんくら」たる井筒平四郎も存在感を全く失わない。

しかし、地道な探索に探索を重ねて、敵の綻びを見出すという「捕物帖の規範?」からすると、自身は、探索手段を持たない井筒平四郎に「黒豆」という「幼馴染」がいて、職制を超えて、極めて重要な情報をインプットしてくる、というのは、ちょっと都合が良すぎる感じもする。

続編である「日暮し」と、話題作であった「孤宿の人」の文庫化を待っているところ。

置き場所の問題、通勤時に読む都合もあり、単行本はなかなか買えませんね。
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戸部新十郎 「前田利常」を読む
2006年02月16日(木) 11:00
光文社文庫から出た、戸部新十郎の「前田利常」(上)(下)を読む。



読み終わるまで気がつかなかったのだが、この作品は戸部新十郎の絶筆であって、解説には60回分の連載予定だったが、ここには58回分までが収録されているとある。確かに突然に終わり、完結はしていない。

加賀前田家、三代の前田利常の事歴を語る上では、4代藩主・前田光高が早く亡くなり、後に名君として名を残すことになる、幼少の5代・前田綱紀の後見として、老境にあって再び藩政の表に立つところも見所で、また、富山藩、大聖寺藩の立藩という事跡も逃しがたいエポックなのだが、残念ながら、光高への相続=利常の隠居までで、絶筆となっているのである。

「前田利常」というタイトルで書かれているが、視点は重臣の富田(とだ)重政、富田重康の父子の視点から語られ、「利常」は読者から見ると、富田重政、富田重康の視線の遠景にいて、一人称で語られることはない。
富田重政・重康父子は、前田家の重臣であると同時に、中条流の武芸を伝える家でもあって、徳川幕府政権内で急速に力を付けていく柳生宗矩との水面下での暗闘も、物語を引っ張る重要な軸になっている。

著者、戸部新十郎の「お国モノ」であるだけに、力作である。

利家、利長父子や、また嫡母・芳春院の影にあって、なかなか着目されない前田利常だが、戦国の余風を残す大藩を、徳川体制の中にいかに上手く、しかも矜持を保ちつつ、ランディングさせていくか、そこには戦場往来の藩草創の武人リーダーたちとは違った辛苦がある。

細川忠興、忠利父子の往復書簡にも、そのあたりの苦労がしのばれるわけである。

まがりなりにも戦塵を体験している2代目と、大名の子として生まれた3代目。
3代目が上手く立ち回れるかどうか、2代目から3代目への継承が上手く行くか、が、蒲生家、最上家、筑後田中家、肥後加藤家、越前松平家、などを見ても重要なポイントであると思う。
池田家も危なかった。

戸部新十郎の前田利常に対する視線は、池波正太郎が、真田信之に注目して、父、昌幸、弟、幸村以上の畏敬をこめて信之を書いているのと通じるものがあるように思う。
池波正太郎の大作「真田太平記」はやはり、信之の物語である。

「前田利常」は前田利家の4男で、2代目の利長は、年の離れた兄である。

また、物語に深みを与えているのが、関ヶ原での西軍味方を問われて、能登の領地を没収され、京に隠棲している、次兄・前田利政の存在である。

ともすると、武断なキャラクターとして、兄利長の徳川迎合を快く思わず、反発した、硬骨武人、という形で書かれることの多い前田利政だが、ここでは、世捨て人として、蒲生氏郷の愛娘である妻とつましく京に住む利政が、前田家の安泰を暖かい視線で見守っているところが、深い味わいを加えている。
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米村圭伍 「風流冷飯伝」、「退屈姫君、海を渡る」を読む
2006年02月15日(水) 14:34
米村圭伍の「退屈姫君伝」を結構楽しんだので、その前編である「風流冷飯伝」と、続編である「退屈姫君、海を渡る」を読む。



ところが、「退屈姫君伝」ほどには楽しめなかった。

「風流冷飯伝」は、狂言回しの「一八」のキャラクターが今ひとつ際立っていないのと、登場する風見藩の「冷飯」たちも、受動的で、影が薄い。

「退屈姫君伝」で才気溌剌と活躍する女性たちは、ここには見られない。
「将棋」が全体を通じて重要な役割を果たすが、最後の御前将棋へのクライマックスとしての盛り上がりも、今ひとつ、緊張感に欠ける。
光っているのは、ちょっとしか登場しない、榊原拓磨の嫂である、榊原香奈ぐらいであろうか。
彼女は能動的女性として活き活きとして光彩を放っている。

そして、讃岐国風見藩城下を舞台とする「風流冷飯伝」と、江戸風見藩邸を舞台とする「退屈姫君伝」の事後談として、両編を受けて統合する形となるのが、「退屈姫君、海を渡る」である。
しかし、これも、前2編の登場人物のオールスター総出演という格好になるのだが、オールスターであるが故の、各人物の役割分担がボケてしまった感がある。

「退屈姫君伝」での対立軸である、敵役としての田沼意次に比べ、ここでの「平家落人村」というのは、やや切迫感に欠け、最後の「冷飯」たちの活躍も、ご都合主義的な強引さが気になる。
倉地政之助も登場する必然性がない。
飯盛女お福は強烈な印象が残ってなかなか良いが。

とはいえ、「面影小町伝」「退屈姫君、恋に落ちる」も、読んでみようとは思っている。

「退屈姫君伝」は面白かったですよ。やっぱり。そのことを改めて確認できた。
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追悼 伊福部昭 5
2006年02月14日(火) 14:48
伊福部昭先生の告別式に参列する。

もちろん、91歳という天寿を全うしてのご最期であったから、悲痛な感じはなく、北海道の原野のような、穏やかな、おおらかなご葬儀であったと思う。

しかし、やはり、会葬者は驚くほど少なかった。

近年は、お通夜は身内、告別式が正式な会葬、という区別は無くなってきていて、都合の合う方に出る、というのが普通だから、私の父の時もそうだったが、告別式よりもお通夜の方が仕事を休まずに来られるので、一般にお通夜の方が会葬者は多い。

今日の告別式の会葬者は、昨夜の会葬者の6掛け程度か。

おかげさまで、出棺前には、一般の会葬者全員にも、ご亡骸に直接お別れをすることが許され、先生の生前のご恩に御礼を申し上げることが出来た。

今後、追悼演奏の類が、どのような形で、どの団体、個人が動くのか、見守りたいが、案外、冷淡かもしれない。

石井眞木先生が生きておられれば、彼の無類のプロデュース力で、大活躍するのであろうが、いかんせん、伊福部先生の弟子たちは、ほとんどが先生より先に鬼籍に入ってしまっている。

葬儀委員長の松村禎三先生の弱り方もただごとではなく、痛々しかった。
今井重幸先生は相変わらずお元気であったが、今井先生も周囲へ影響力と言う面ではなかなか難しいと思う。

作曲家、演奏家、事務方含め、有力な音頭取りが現れないかもしれない。

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追悼 伊福部昭 4
2006年02月13日(月) 23:28
伊福部先生のお通夜に参列する。

生前、先生の作品を、先生のご臨席の会場で演奏することができ、また、先生の謦咳にも接することが出来たことは、まことに光栄なことであった。

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しかし思いのほか少ない参列者。

新聞にも通夜、告別式の日時・会場が掲載されていたので、もっと多くの方が見えられるのかと思ったのだが、18時45分頃にはほとんど無人となる。

やはり孤高の芸術家だったのであろうか。

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ちば谷津田フォーラム・シンポジウム
2006年02月12日(日) 22:46
今日は、ちば谷津田フォーラムの「命の水源としての谷津田」というテーマのシンポジウムに出席。

内容はこちら

県内各地の谷津田の現況、谷津田保全の取り組みについて聞くことができた。

行って見たいフィールドも多い。

堀田先生の「印旛沼流域の湧水」についての講演は、たくさんの谷津田湧水の写真を見せていただいて、刺激的だった。
湧水巡りも谷津田観察の面白いところかもしれない。


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追悼 伊福部昭 3
2006年02月11日(土) 22:06
日本の音楽アカデミズム本流は、概して伊福部昭及び伊福部昭的なるもの、伊福部昭をめぐる熱狂、に対して冷淡であったし、演奏家たちも、「真面目に取り組むべき価値のあるもの」とは考えていない人が多かった。

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しかし、20世紀後半の時代を過ごして、今、振り返る時、伊福部的なるものを否定した人々は、後世に残す何かを成し遂げたのであろうか?

伊福部昭は、後世に残る。これは間違いない。

伊福部先生的な価値観、原始的、原初的なるもの、自然の神々・精霊たちへの謙虚さ、
といったものは、文明批判(文明否定)の側面を持っているし、偶然の所産なのかも知れないが、ゴジラの精神も人類文明の傲慢に対する批判、原始的なるものへの畏敬、自然の神々への謙虚さへの警鐘であった。

もちろん単純なオスティナートに辟易する向きもあるだろうし、あきらかにそういう作品もあった。
が、それらを割り引いても、直接に魂を突き動かす力のある音楽であったことは、音楽評論家や音楽を生業とする人々よりも、聴衆が知っていた。

<伊福部先生の書斎>
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桐ヶ谷斎場で、2月13日にはお通夜、14日には告別式があるわけだが、ロシアでのチャイコフスキーの葬儀のように、多くの国民が葬送する、という意味では、日本人の作曲家としては、空前にして絶後の状況を呈するのではないだろうか。

わたしも、先生から受けた数々のご恩を謝し、ご冥福をお祈りすると同時に、その場の状況を、日本の音楽史の1ページとして、この目で見届けたいと、思っているのである。

なぜなら、洋の東西を問わず、同時代の作曲家の葬儀としては、私が生きている間に経験できる、最も大きなイベントとなるのではないか、という思いもあるのである。

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追悼 伊福部昭 2
2006年02月10日(金) 23:51
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思えば、伊福部先生の音楽に与えられた影響というのは、私の音楽生活すべての底流に流れるものであったように思う。

高校時代、FMラジオで聞いた、「ラウダ・コンチェルタータ」以来、シンフォニア・タプカーラ、交響譚詩、そして、ゴジラをはじめとする、東宝の特撮映画の音楽たちも。

私がいわゆる日本のクラシック音楽に興味を持った時点は、12音・前衛にあらずんば、音楽にあらずという時代であった。
伊福部先生の音楽は、その中で衝撃的に「新しかった」。

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私は、常に「伊福部的なるもの」を求めていたと思う。

そして、「伊福部ルネサンスの時代」を迎え、聴衆は熱狂するけれども、やはり、現代の作曲家たちは、その潮流とは無縁のところで、活動をしていると思う。

もはや世界的にも答えは出ていると思うのだが、暗黒の20世紀後半と決別し、21世紀は新たな時代になって欲しかったのだが、簡単にはそうはならないようである。

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サイン、見つかりました。
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追悼 伊福部昭
2006年02月09日(木) 10:26
嗚呼!

いつ来てもおかしくはない、と意識していたものの、ついにこの日が来てしまうと、大ショック。

伊福部昭先生 ご逝去

いただいたサインの所在を確認しないと。
もう、チャンスはないから。

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秋篠宮家の第3子と皇室典範改定
2006年02月08日(水) 14:34
さてさて、微妙なことになってきましたね。

昨日までは、小泉首相も今国会での「皇室典範」改定案の提出を明言してましたが、午後からはトーンダウン。

今日になると、産経新聞によれば
今国会への提出を見送る可能性を示唆した

とのこと。

首相任期期限と、お誕生の時期も微妙な関係だが、閣僚内にも、慎重論が出ていただけに、「引っこめるきっかけ」としては、小泉さんに助け舟が出た感じである。

しかし、「皇室典範に関する有識者会議」の案は、「今後、皇室に男子の皇族が誕生する可能性も視野に入れて」検討したけれども、「継承順位は男女を問わず天皇の直系の長子」としたのであって、親王誕生の可能性が出たからと言って、答申内容とその論拠は変わらないはずである。

しかし、実際問題、親王が誕生し、成長する姿を見れば、国民の意識も、愛子内親王と、新親王と、どちらを天皇にしたいか、ということでは、がらっと世論の風向きが変わってくるのではないだろうか。

それと、秋篠宮ご夫妻には、もし、この秋ご誕生のお子様が男子であっても女子であっても、すぐさま、第4子に励んでいただきたいと思う。
紀子様45歳くらいまでは、頑張って欲しいと思う。

世の多くの第2子、第3子を逡巡する、高齢マザーたちに範を示し、勇気を与えて欲しいものである。

側室制度がない以上、多産で行くしかないのである。



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でかしたり、秋篠宮
2006年02月07日(火) 15:24
待望の秋篠宮家、第3子ご懐妊

でかしたり、鯰皇子!

まあ、またもや、内親王、という可能性も十分あるわけだが、それでも、明るいニュースである。

母子ともにご健康でお誕生を迎えられることを願ってやまない。

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谷津田散策で早春を感じる
2006年02月06日(月) 18:10
昨日はいつもの近くの谷津田の自然観察会に参加。

寒い日が続いていて、風邪気味の娘を連れての参加は、ちょっと躊躇われたが、思いの他、2月5日の谷津田は日差しにあふれ、気持ちの良いものであった。

朝にはみな凍っていた、という田んぼも、午後には水深が浅く、日差しを受けて温み、触ると驚くほど暖かい。
そんな田んぼには早くもニホンアカガエルが卵を産み始めている。
ニホンアカガエルの卵塊の数も調査する。

このニホンアカガエルも絶滅危惧種である。

しかし、絶滅危惧種であっても、ちょっとした環境を整えてやれば、元々里山の生物は力強い。


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麻生太郎は・・・2
2006年02月04日(土) 13:48
朝日新聞の報道によれば、

麻生外相は、改正案で女性・女系天皇を容認していることについて「(愛子さまが天皇になられるのは)何十年も先なのではないか。そういう段階でまだ男子皇族が生まれないがごとき話をしているが、いろんなことが考えられるのではないか」と批判した。

とのことだが、何度も言うが、こと、皇位継承に関する限り、この問題は、麻生太郎にとっては、自分の姪が、天皇になるか、ならないか、という問題なのであって、極めて身内の話になるのだ、という自覚が全くないようだ。

自分が利害関係者である、ということを自覚していないのは、却って喜ぶべきことなのかも知れないが、それにしても、不用意な上に、浅学に過ぎる。



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PHP新書「皇位継承のあり方」-女性・母系天皇は可能か- 所 功 著 を読む
2006年02月03日(金) 14:03
皇位継承をめぐる論議、著作は夥しく出てきているが、PHP新書から、以前文春新書から「皇位継承」(共著)を出していた、所功の著作になる、
「皇位継承のあり方」-女性・母系天皇は可能か-が出たので、早速、読んだ。


所氏の立場は、「皇統の継承」の意味付けを、男系継承への固執よりも、「皇族による継承」が続いて来たことの方が、重要だ、という立場である。

男系・男子皇族が継承していくことが望ましいが、それが難しい場合には、女系・女子皇族も継承者に含めるべき、という立場だ。

女性・女系天皇容認では、先の「皇室典範に関する有識者会議」の報告書と同じなのだが、所氏が、同有識者会議の報告に、異を唱えている最大の相違部分は、「有識者会議」が皇位継承順位を「長子優先」としているのに対し、所氏は「男子優先」とすべき、としている点である。

また、男子継承拘泥派の高崎経済大学教授、八木秀次氏らの論拠に対しては、国民尊崇の対象としては、皇族でない男系男子が皇族に復して、皇位に付くよりも、「皇族」として生まれ育った「皇族」が継いで行くことの方が、男系継承よりも優先される概念だろう、としている。

継承順位の可能性パターンについて、実名、敬宮愛子内親王、秋篠宮眞子内親王、佳子内親王、三笠宮寛仁親王家の2女王、高円宮家の3女王、さらに、これらの方々のお子が出来た場合までも想定予測し、系図図説している点は、非常に踏み込んだ試みで、読者の理解を助けるだろう。

これまでの代表的な各立場の論を、一通り整理し、列挙することで、この問題に関すしての各研究者の論を具体的に改めて概観できる。

また、論争、反駁が必ず付いて回るこのテーマを取り扱うにあたって、煩わしいほどの出典・参考文献をあげている。

あとがき、補足資料としての皇室略系図、現在の天皇・皇后、皇太子・同妃のご公務の一覧表、参考文献に割くページは、ほぼ半分に渡り、著者の著述本文は新書の半分くらいなのではないだろうか?

もちろんこれらの付属資料は重要である。

今回、所氏の指摘によって私も認識を新たにした部分が少なくない。

第一は、8世紀初頭の「大宝令」の「継嗣令」に
「およそ皇兄弟と皇子、皆、親王と為す(女帝の子も同じ)」()の註は、原註、、、とある点。

つまり、実際には実例が無く今まで来ているだけで、大宝令時代には、女帝の子も親王たり得る、と考えられていたこと。

また、私は、明治皇室典範では永世皇族制については、文字通り宮家は「永世皇族」たりうる、のだと思っていた。

が、所氏は、以下の点を指摘する。
明治40年制定の「皇室典範増補」に基づいた大正8年制定の「皇族ノ降下に関スル施行準則」で、五世の王以下は長男の八世までを皇族とし、それ以外を臣籍降下せしめる、としている。
しかし、伏見宮系の宮家皇族は、既にこの明治の時点で皇統とは十数世離れてしまっているので、特例として、伏見宮邦家親王を便宜的に「五世王」と見なし、各家の八世までを皇族として、以下は臣籍降下させること、
を規定している。

つまり、GHQ占領下での強制的な臣籍降下がなかったとして「明治典範」が継続していたとしても、戦後の降下当時の当主「本人」までが皇族の範囲(八世王)で、現在の旧宮家の当主及びその子は、明治典範を適用しても、皇籍を離れるルールであった、という指摘である。

降下時の旧宮家当主「本人」は、(ほぼ)八世王なので、確かにGHQによって、強制的に皇籍を離れざるを得なかったが、東久邇家、竹田家であっても、その子、孫は、明治典範下においても、皇族身分とは認められなかったのだ、と指摘する。

旧宮家の臣籍降下は不当な押し付けであったので、皇族に復帰させるべきだ、という論を牽制する。

この明治典範での、「皇族範囲」についての考え方は、よく考慮すべきポイントだと思う。

また、同書は巻末に「皇室典範に関する有識者会議」の報告書を掲載している点でも、現状認識の助けとなるだろう。
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小澤征爾の療養
2006年02月02日(木) 10:35
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ウィーン国立歌劇場の発表によれば、
芸術監督の小澤征爾が、今年2006年一杯の全ての仕事をキャンセルし、日本での病気療養生活に入る、とのこと。

病名が明らかにされてないので、やっぱり癌かなあ、と勘ぐってしまう。

ボストンのシェフを円満卒業、ウィーンシュターツオーパーとの契約も2010まで延長されたところで、最後の花道としては、申し分ない環境だっただけに残念。

ところで、満州生まれの征爾の名は、関東軍参謀で、満州事変の立役者の2人板垣征四郎石原莞爾の名をとったものである。

石原莞爾は東条英機と対立し罷免されて、第二次大戦中は故郷に帰って隠棲していたが、板垣征四郎は第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣で陸軍大臣も務め、極東軍事裁判でA級戦犯として死刑、1948年絞首刑となっている。

当の小澤征爾は、自分の名の由来には無頓着だったようで、自分の息子や娘にも「征」の字を付けている。  マメ雑学でした。
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