2006年05月31日(水) 17:53
ジャイアンツ戦に3連勝し、同じく交流戦に入ってから調子が上がってきていたスワローズにも先勝。
だんだんエンジンがかかって来た感じである。 小野晋吾の完投も嬉しい限り。 9回2死まで完封だっただけに、最後のホームランは惜しまれるが。 スポンサーサイト
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2006年05月30日(火) 22:57
「ダ・ヴィンチ・コード」は、あまりのブームにちょっと引いて見ていたが、やはり、読んでおかないことには、仕方ないだろうということで、読み始めたが、あっという間に上、中、下巻、読了。
![]() ![]() ![]() 素晴らしいエンタテインメント作品。 内容は説明するのもヤボなので、触れませんが、ルーブルはちょっと前に行ったので、何か、空気感というか、リアリティありましたね。 これ読んで、また行ったら、違う感興があるのだろうけれど。 ロンドンは未訪なのですが。 テンプル騎士団 マグラダのマリア シオン修道会 などの一般知識は、参考になるかもしれない。 いずれにしても映画公開に伴って、大騒ぎになっている解釈自体は、このダ・ヴィンチ・コードの著者ダン・ブラウンがはじめて言い始めた話ではない。 聖書とキリスト教についての常識的知識が、ある人と、そうでない人ではこの作品から受ける印象は当然違うのだろうが、エンタテインメント作品として、特に知識のバックボーンがなくても楽しめるようにできている。 |
2006年05月29日(月) 23:12
モンテネグロの国家分離独立に触れたときに、気にかかっていた地域がグリーンランドである。
今朝の朝日新聞の第一面にグリーンランドの氷河消失が加速している、という記事が写真入りで大きく出ていたので、今日はグリーンランドの話などを。 植民地支配が、前世紀の遺物となった今日、広大な海外領土であるデンマーク領のグリーンランドの存在は、いささか奇異である。 グリーンランドの国旗はこんなのです。 ![]() グリーンランドは、第二次大戦期にデンマーク本国がナチス・ドイツに占領されている間、アメリカの保護領となり、結果的にデンマーク本国との距離を遠ざけることになって、戦後の1953年にデンマークの植民地から海外郡になり、1978年には自治政府が出来た。 http://www.nanoq.gl/ この自治政府のサイトは、デンマーク語、英語もあるが、indexのページはカラーリット語である。 人口は全島で58,000人ほどで、85~90%はイヌイットの同系のカラーリットである。 デンマーク語由来の地名もカラーリット語の地名に変更されている。 しかし、人口58,000では、デンマークから独立することのメリットは少なく、これ以上の分離運動はないようである。 私はリヒテンシュタイン候国のドメインである、liドメインを使用しているが、グリーンランドのglも興味があって取得しようとしたことがあった。 希望のドメイン名には空いていたが、手ごろな仲介業者がおらず、事務が煩雑で断念したことがある。 |
2006年05月27日(土) 13:29
今日は娘の運動会のはず、だったのですが、明日に順延、って明日の方が、天気悪そうだけど。
どうすんのかなあ。 明日は運動会中止になっても、授業をやるそうで、月曜日の振替休日は固定。 給食とかの関係かな? と思うけれども。 ということで、今日は運動会レポートを書こうと思っていたけれども、延期。 昨日のマリーンズ、対巨人戦(全国中継)での、小林宏之の好投、大松のホームランは素晴らしかった。 清水直行、渡辺俊介で、3タテと行きたいところです。 |
2006年05月26日(金) 12:51
昨晩は、仕事帰りにマリンスタジアムに寄る。
タイガース戦はどこかで行きたいと思っていたが、火曜日も水曜日も天気予報が思わしくなかったので、昨晩にした。 平日の試合にも関わらず、大勢のお客さん。 28,000人だったそうだが、三塁側・レフト側のタイガースファンの多さと応援の熱心さには、驚いた。 人数ではマリーンズファンと互角か、声が正面から聞こえるから声援では、負けているのではないか? と心配になるほどであった。 隣のおじちゃんによると、ジャイアンツ戦でも、ヴィジター側はこんな状態にならない、とのこと。 タイガース戦は甲子園で2敗、マリンで2敗を受けての昨晩のゲームだったが、久保の出来がよく、決勝点は里崎の3ランだったが、9回表は、小林雅英が打たれて、危うかった。 この回からセカンドの守備に入った根元が、強烈な二遊間のあたりを止めて、救われた。 帰路は直通バス1本で帰れるし、通常の路線バスのルートでない、最短ルートを走ってくれるので、楽チンだ。 スワローズ戦も来ようかな。 |
2006年05月25日(木) 12:50
国民投票の結果、セルビア共和国と国家連合の形を取っていたモンテネグロの分離独立が事実上決まったことは、マスメディア各紙で既報の通りだ。
投票結果が出た当初は、すんなり独立承認といくか、EUも半身姿勢だったし、またぞろ内戦の危機も危惧された。 しかし、セルビア共和国のタディッチ大統領も投票結果を受け入れる、と表明し、モンテネグロ共和国は新国家として新たなスタートを切るようだ。 国際的にはセルビア・モンテネグロの後継国家はセルビアと規定されており、モンテネグロ共和国は国連など国際機関への加盟申請を、一からスタートすることになる。 モンテネグロ共和国国旗 ![]() モンテ・ネグロ とは、イタリア語で、「黒い山」のことだが、自国での正式国名は、意味は同じく「黒い山」だが、ツルナ・ゴーラと呼ぶ。 お膝元のコソボ自治州の分離独立運動に拍車がかかることは間違いないだろうが、昨日の朝日新聞に、このモンテネグロ共和国成立の波紋として、スペインの州の自治権強化の問題が取り上げられていた。 バスク地方は従前より、分離独立運動の盛んな地域だが、朝日新聞の記事はバスクもさることながら、カタルーニャの問題に焦点をあてていた。 フランコ独裁政権時代には、強力な中央集権政策によって、カタルーニャ語(カタラン語)の使用も制限されていたが、フランコ没後の1978年以降のスペインは、州に大きな自治権を与えることによって、分離運動へのガス抜きを行ってきた。 州政府は大きな権限を付与されていたため、カタルーニャ政府は、カタルーニャ語(カタラン語)を公用語としたのは当然として、現在では小学校の授業は全てカタルーニャ語(カタラン語)で行われ、スペイン語は中学校から「外国語」として学ぶ形となっている。 州政府は州の自治憲章に、カタルーニャは「国」である、という文言を盛り込み物議を醸している。 カタルーニャ市民の中にも、学校教育でのスペイン語廃止など、極端な「反スペイン的、カタルーニャ化」政策は、カタルーニャ地方にとって必ずしも良いことではない、という意見も少なからずあるようだ。 カタルーニャの主要都市であるバルセロナでオリンピックが開催されたので、スペイン国内でのカタルーニャの立場やカタルーニャ語(カタラン語)の問題も少しは国際的に認知されるようになったかもしれない。 カタルーニャの旗(これを州旗と呼ぶか国旗と呼ぶかは、それぞれの立場ですね) ![]() 国家のアイデンティティという問題を持ち出すと、火種を抱えている地域は多く、現在内戦状態にあるところも多い。 北アイルランド、カナダ・ケベック州、インドネシアのアチェ州、イリアンジャヤ、そしてチベットの問題もある。 チベット亡命政府は日本語サイトも持っている チベット国旗(右辺には黄色い部分がないのはミスではなくオリジナル) ![]() ケベックではケベック州旗が目立つ ![]() スコットランドの独立運動もある。 ロシアに残った周縁の自治共和国では、チェチェンに限らず、枚挙に暇がない。 わが国もよそ事ではなく、沖縄の独立を真剣に訴えている勢力は、瑣末な市民運動ではないし、歴史的経緯を見ても、日本が明治初年に国際社会にデビューした瞬間には、まだ琉球王国は、日本に併合されていなかった。 1879年(明治12年)の「琉球処分」までは明らかに独立国であった。 日本語標準語と、ウチナーぐちの差異は、どう見ても、スペイン語とカタルーニャ語(カタラン語)の差異よりは大きい。 ハワイ王国の武力恫喝とリリウオカラニ女王監禁下におけるアメリカへの併合は、「琉球処分」よりもっと後の1898年の出来事であり、ハワイでも独立・王制復活を歌う政治勢力は存在し、1998年に、アカヒ・ヌイ陛下がハワイ王に戴冠している。アカヒ・ヌイは、リリウオカラニ女王の姉妹の子孫、ということだが…。 ハワイ王国の国旗については、諸説あるようで、こちらにサイトに詳しい。 |
2006年05月24日(水) 20:52
ノルウェーの作曲家と言えば、まずは、エドワルド・グリーグ、ついでクリスチャン・シンディング、ハルヴォルセン、ヨハンセンなどがいるが、私は今、Geirr Tveittゲイル・トヴェイト(1908-1981)に非常に着目している。
Tveittは、非常に多作家だったが、不幸なことに、1970年に自宅が火災に遭い、多くの作品が焼失した。 Tveittも多くのノルウェーの先輩と同様、ドイツのライプツィッヒに学んだ。 ノルウェー西海岸のフィヨルド地方である、ハルダンゲル地方に居を構え、それまであまり知られていなかったハルダンゲル地方の民謡を、1000曲あまりも採取した。 その成果は、ピアノのための「ハルダンゲルの50の旋律」Op.150と、 管弦楽のための「ハルダンゲルの100の旋律」Op.151に結実する。 ピアノのための「ハルダンゲルの50の旋律」は全て聞くことができるが、 管弦楽のための「ハルダンゲルの100の旋律」は、現在、聞くことが出来るのは、 「ハルダンゲルの100の旋律」組曲第1番、組曲第2番、組曲第4番、組曲第5番で、NaxosからCDが出ている。 組曲第1番と第4番の組み合わせで1枚、第2番と第5番の組み合わせで1枚。 第1番は副題を持っていないが、第2番は「山の歌」、第4番は「婚礼の歌」、第5番は「トロルの旋律」という副題が与えられている。 それぞれの組曲は15曲からなっているので、4つの組曲を合わせて60曲。100曲にはならないわけだが、組曲第3番と第6番は焼失時に失われたか、あるいは、100曲の構想で書き始められたが完結しなかったのか、わからないが、いずれしても現存していない。 1、2、4、5、の組曲は15曲づつなので、仮に第3番と第6番が同様の体裁だったとしても、15×6では90曲で、どこかで、10曲辻褄を合わせないと100曲にはならない。 ![]() ![]() なんかすごくフシギーな感じがする曲がいっぱいで面白い。 また、火災で焼失したと思われていた作品の中から管弦楽曲「プリラール」と「太陽神交響曲」が復元されいて、聞くことができる。 ![]() 「プリラール」は、ライプツィッヒ留学時代の若い頃に書かれた作品だが、ノルウェーの民族楽器「プリラーホルン」に触発されて書かれたもので、「プリラーホルン」の音色を意識した民俗色に富んだ楽曲となっている。 民族色に富む不思議なTveittの世界、しばらく私を魅了しそうである。 未聴の曲を聴いたらまたレヴューしたい。 ハルダンゲル地方そのものについても、ハルゲンダル地方特有の共鳴弦を持ったヴァイオリン「ハルゲンダル・フィドル」についても、項を改めて触れたいと思う。 |
2006年05月23日(火) 14:43
今日のように風の強い日には、いつも思うのだが、ビル風を利用した、小型風力発電をもっと手軽に導入できないものか、と思う。
家庭向け小型風力発電機は、各社、新製品をどんどん出していて、設置例も増えている。 例えば、ゼファー(株)は風力発電機メーカーとして著名なアメリカのサウスウエスト・ウインドパワー社のOEMから、風力発電機事業に参入したが、近年では、自社ブランドの開発に力を入れている。 OWL(アウル)/ECO-10ZXP ![]() は、一般家庭向けに開発された製品である。 また、神戸製鋼の関連会社、神鋼電機が出している「そよ風くん」も垂直回転軸タイプのジャイロミル形式を採用しており、興味深い製品だ。 ![]() また、ゼファー社の製品は、エコプラザビル永代橋の屋上に25期が設置され稼動している。 ![]() これなどは、ビル風を念頭に置いた設置例であろう。 石原慎太郎・東京都知事も、東京都における小型風力発電についての都議会での答弁で、 現に、東京湾の埋立地に三基、風力発電を設置しまして、私も操業のときに出席いたしましたが、思ったほど風がないんですね、東京湾というのは。あそこにあれを建てても余り効果が上がっていないんですが、しかし同時に、ご指摘のように、小ぶりの風力発電というのは、例えば、ビル風が高層ビルが建つ中で強く吹くわけでありまして、むしろビルの屋上よりも側面に幾つか備えるということで、ビルとビルの間はヘリコプターが飛ぶこともございませんから、そういう工夫を技術屋さんに注文として出して、やってみることは必要じゃないかと思います。 と、言っている。 我がマンションも、ベランダに鉢植えも置けないほど、凄まじい風が吹くので、このエネルギーはもったいないものだなあ…、と常々思っている。 実際の導入例はもっと多くあるのかもしれないが、垂直ジャイロ型のものを高層ビルの屋上というよりも、側面の角の縦長に連ねたら、結構、効率の良い仕組みができあがるのではないか、と思うのだが。 |
2006年05月22日(月) 18:51
買ったのはだいぶ前だったが、積んであった一冊。
福田千鶴 著「御家騒動」を読む。 厳密に言えば、一度読み始めて、電車の中で寝ていて、急いで飛び降りたときに、電車内に落としてなくし、買い直した一冊です。 ![]() 江戸時代の大名家の「御家騒動」をいろいろな一次資料をあたりながら、従来の人形浄瑠璃や歌舞伎、時代劇のパターン化された「御家騒動」の既成概念を、問い直そうという主旨である。 特に、「御家騒動」は公儀に知られると、御家取り潰しになる…という、時代劇風のステレオタイプの誤解を解く。 初期の「御家騒動」はむしろ、騒動の当事者が、求めて幕府の有力者に訴え出て、幕府の裁決を仰ごうとする例が多く、「幕府に知られてはならない」という暗黙的な了解が、後年にエンタテンメントの定型となっていくに従って、定着していくことを傍証する。 主従の関係というものが、そう単純なものではない、ということを啓蒙する。 結果的に騒動を発端に改易された大名家が、蒲生家、堀家、堀尾家、中村一氏家、生駒家など、織田政権、秀吉草創期からの重臣家が多いので、幕府側には「御家騒動」を好餌として、これらの大名家を改易したい、という意図の元に「御家騒動」が取り扱われたような印象を持ってしまうが、実際には幕府はこれらの家を「存続させよう」と色々努力していることがわかる。 結果的に幕府の期待に従えない、さらに騒動が続く、継嗣が死没するなど、した結果、改易に至っているが、経過としては幕府の基本的姿勢は、何とか「存続」させよう、という方針で臨んでいることがわかる。 秀吉によって東海道の浜松、掛川、駿府に配され、関ヶ原では家康についた、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏だったが、山内家は家を保ったが、堀尾家、中村家は、後が続かなかった。 中村一氏家の騒動は一氏嫡子の中村一忠の代に、一忠が重臣横山内膳に切りつけ、騒動に発展するわけだが、内戦状態となり、立てこもる横山派の中に柳生五郎衛門宗章がいて、討ち死にするのだが、彼は柳生但馬守宗矩の兄である、という話は何度聞いても奇縁に感興を覚える。 本題から外れるが、柳生宗章は、興味をそそられる人物である。 |
2006年05月20日(土) 22:20
今日は、八千代市民会館で開かれた、第3回「里山シンポジウム」に参加。
![]() 午前中の分化会は、「ビオトープとしての里山保全」に参加。 ![]() 会議室は満席となり、椅子を追加する盛況。 茂原樟陽高校の緑地計画科教諭の渡辺英二先生が、茂原樟陽高校での一宮町での谷津田の放棄田の復田作業の発表。 30年以上放棄されていた放棄田を復元している。 さすがに現役高校生が時間をかけて取り組むとなると、本格的なものが出来る。 地権者の方との関係は、やはりなかなか難しいものがあるようだ。 生徒たちが佐渡を訪問し、トキを見て、野生のトキが最後まで見られた田んぼを見に行く。 2番目は我孫子市の手賀沼に近い、岡発戸・都部の放棄谷津田に池を作られる活動をしている、阿部さんの発表。 3番目は行政も本格的に関わる形となっている、野田市の江川谷津でのオオタカ、サシバの森を含めた復田計画。 宅地開発の計画が一度は出来た谷津を、市が買い戻し、農業生産法人に売却し、谷津田環境の復元、保護と、営農の経済的自立を両立させようとする試みが発表された。 午後の全大会は、会館大ホールで、今年のテーマは「里山とゴミ」 基調講演として徳島県上勝町役場の星場さんの上勝町での事例が発表された。 ![]() 第3セクター会社「いろどり」他、様々な試み。 ゼロ・ウェイスト計画 それから、18の分科会から、それぞれ報告。 ![]() ![]() ![]() その後、パネル・ディスカッションなのだが、私は練習の時間に間に合わなくなるので、ここまでで失礼した。 パネル・ディスカッションも楽しみだったが、仕方ない。 千葉テレビのカメラも入っていて、なかなか盛況だった。 |
2006年05月19日(金) 18:17
明日は千葉県内を活動フィールドとしている、132のNPOや団体が集まって開催する「里山シンポジウム」に参加予定。
マリーンズは隅イチをモノにして、ファイターズと同率ながら今シーズン初めて首位になったが、今日はあえてマリーンズネタではなく。 「里山シンポジウム」はNPO法人ちば情報環境センターが事務局となって、主催する実行委員会は、初めに書いたように、千葉県内で活動している132のNPOやグループの共催、という形になっている。 千葉県内で「里山」をテーマに活動しているグループがこれほどたくさんある、ということも驚きである。 |
2006年05月17日(水) 19:16
スポーツ選手のブログはもはや珍しいものではなくなってきているが、我がマリーンズの選手たちも、オフィシャル・ブログを次々に開設している。
ボビー・バレンタインのものはもちろん ![]() 里崎智也選手 ![]() 西岡剛選手 ![]() 渡辺俊介投手 ![]() …は公式サイト自体は以前からあったが、この中のブログは本日5/17に初投稿されている。 最近始まったものでは、今江敏晃選手 ![]() のブログが、ほぼ毎日、頻繁に書き込まれていて楽しめる。 書き込み頻度は、各選手のパーソナリティを反映していて、様々なのだが、好調時も不調時も本音が聞けて興味深い。 くれぐれも本業に差し障りのない程度で、楽しみながら書いていただければと、願うものである。 |
2006年05月16日(火) 22:22
境港市で、水木しげる先生ご自身が審査される、「妖怪そっくりコンテスト」が行われる。
![]() 応募受付期間は6月1日~6月30日だそうである。 コンテストは1次審査が7月7日、最終審査&表彰式が8月20日だそうである。 いずれも、境港市の夢みなとタワーで。 |
2006年05月15日(月) 22:07
いやあ、いまさらですが、iPod、便利ですなあ。
これは参ったなあ。スゴイ。 圧縮形式も、優れていると思います。 MP3よりもWMAより、全然音が良いように思います。 操作性も優れている。 これはハマりました。アクセサリー・グッズも買いそうだなあ。 私の場合はヘッドフォンにBOSEのQuiett Confort2を使っているので、図体も値段もヘッドフォンの方が全然大きいのですけれど、ストレスのなさは換え難く、この環境でしばらく行きそうですね。 ![]() |
2006年05月14日(日) 22:12
ジャンケンの話の続きだが、関東の地言葉としては「チッケッタ」ではないか、と思っているのは昨日書いた通りだが、「チッケッタ」には「アイコデショ」に相当する掛け声はなく、アイコの場合は「ッタ、ッタ、ッタ」と繰り返す。
遊び言葉もテレビを中心としたメディアの影響は免れえず、例えば「最初はグー」の出現と定着には、ドリフターズの番組の影響であろうことは、多くの方が指摘している。 各地の地言葉の遊び言葉も急速に多様性を失っていくのだろう。 私の母方の亡くなった祖母は愛知県の尾張地方で育っているが「インチャンシュ」だといっていた。 一般には「インチャンホイ」も知られる。 この場合の「インチャン」の唱え方は、通常のジャンケンホイのリズムとは違って、「イーンチャーンでホウイ!」と大きく7拍で取る唱え方であったようで、3拍目で決め手を出す通常のリズムとは違うようである。 この大きな7拍取りの唱え方は「ジャンケン」地域にもあったようで、だんだんに3拍式に変わっていったようである。 大学時代の友人の富山県出身の人物は「ハッサンエ」である。と面白い証言をしてくれた。決め手の拍に「エ」という子音を伴わない音が来るというのは、どうもシマラナイ感じがするが、非常に面白い。 いずれにせよ多くの方言の中でも子供の遊びに関する言葉は、性質上、非常に多くのバラエティがあったのと同時に、口伝であるがゆえに失われて行くスピードも早いのだろう。 NHKの番組で数年前に47都道府県の方がジャンケンを言っていくものがあって、結構、標準語化が進んでいる印象を受けたが、北から始まって終わりの方で宮崎県の方が「ジャンケンポシ」というのを披露されていて、この「ポシ」という音に非常におかしみと同時に嬉しさを感じた。 |
2006年05月13日(土) 23:18
娘が新しい消しゴムをもらって、開封したところ、「ソーダの匂いがする」という。
ソーダの匂いって何だ? と思いつつ、ソーダって言う言葉に触発され、何気なく「そうだむらのそうださんが…」と口ずさんだところ、小3の娘が「・・・そーだーのんで、死んだーそーだ。そーしきまんじゅーデッカイそーだ。中身のアンコはチッチャイそーだ」と即座に続けたので、この他愛も無い、意味無しフレーズが、数十年の時と世紀を越えて、一言一句、調子も変わらずに継承されていることに、私と妻は愕然とした。 子供の遊び言葉というのは、活字媒体になりにくいので、口伝で伝承されていくものだと思うが、特定のゲームや遊び歌と関連性がなく、使用場面に必然性のない「ソーダむらのソーダさんが」が残っていることに改めて驚いたわけである。 こどもの遊び言葉という意味では、 「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり」があるが、これは、私の世代は、 「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり。なのなのな。かきのたね」であった。 しかし、お子様をお持ちの方は皆さんご存知ように、現在では、 「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり。てっぽう撃ってバンバンバン、も一つ撃ってバンバンバン。あかとんぼ、しろとんぼ、なのなのな、かきのたね」である。 もちろん、これは、奇数拍の音韻を持つ語を連ねることによって、選択結果が逆になることから、「どちらに…」を、そもそも、どっちから始めるかによって、容易に最終選択結果が予見できてしまうことを避ける意識がはたらき、奇数拍の音韻を持つ語を連ねていって、現在に至っているのだと思う。 私が大学時代に興味を持ったのは「じゃんけん」の地方分布である。 わたしは、本来、東京の地言葉では、「チッケッタ」であると思っている。 しかし、私の小学生時代、「チッケッタ」は使用していたものの、「ジャンケンポン」もしくは「ジャンケンポイ」よりも、やや、乱暴で下品な言い方であるような印象を持っていたことも確かであり、主として男子同士が使用していたように思う。 しかし、乱暴で下品な感じがするとことが、「チッケッタ」の「ジャンケンポイ」にはない、魅力的なところであったようにも思う。 「じゃんけん」言葉の色々については、まだ書きたいこともあるが、今日も遅くなったので、日を改める。 |
2006年05月12日(金) 17:27
昨年9月に、NHKの難問解決!「ご近所の底力」で、お困りご近所として、千葉市中央区仁戸名町の支川都川の地域での「野生メダカ」の復活が取り上げれた。
野生メダカを保護育成して、人工的に増殖させる一方で、メダカが住める環境を整えていきたい、ということだった。 支川都川流域にメダカを呼び戻す会 ![]() 都川は、下流部では、千葉市のまさに中心街を流れ、川の上にはモノレールが走る都市河川で、流域面積は狭く、上流部では、印旛沼経由で利根川へ繋がる鹿島川水系や、市原市の海岸へ出る村田川とも、分水界は、非常に近接している。 本川も支川も上流部に行くと、まだコンクリートの護岸工事がされていない小川が残っている。 周囲の谷津にも湧き水が豊富で、一見したところ、まだ、辛うじてメダカが住む環境としても守れるのではないか、と思われる環境だ。 9月の番組放映では、結局、支川都川では、野生メダカを発見することができなかった。 しかし、その後、支川都川のメダカを保護、増殖飼育している方がいらっしゃることがわかったそうで、今月の末に、再びその後の状況が「ご近所の底力」で取り上げられるようだ。 都川流域での水辺の生物の復活と定着は、地元民として、大きな期待を寄せているところである。 メダカは英語でrice fishと言うように、田んぼと切り離せない生物であり、単純にメダカだけを取り出して、人工的に増やしてみても、根本の田んぼの環境が整わないといけない。 生物としては環境負荷には強い生物であって、環境さえ整えば、増殖は容易である。 人工飼育も手間もかからず、素人でも簡単に増やせる。 しかし、増やしたメダカを、放流してみたところで、1~2年で世代が交代するメダカは、一度メダカが住めなくなった環境には、その環境のまま、いくら放流しても、生き残ることはできない。 メダカが住める環境が整えば、特別、人間の手で人口増殖などしなくても、自然に増えるのである。 メダカはもともと、人間の米作という営みに適応して、繁栄してきた種であって、単純な「自然保護」、手をつけずに放置する、という保護では、保護できない生物である。 千葉市のような都市近郊の農家は高齢化している上に、住宅地開発の圧力もあり、営農の経済的な意味合いが非常に希薄になっている。 そういった中で、メダカは指標生物としては、わかりやすいが、保護の肝になる点は、米作りをどういう形で続けていけるか、というところに行き着くのである |
2006年05月10日(水) 17:30
私の里山への興味、持続可能型社会への興味、あるいは柳田国男や宮本常一への興味、マス・マーチャンダイズされた製品やメディアへの警戒心、水木しげる的なモノへの興味、伊福部昭的なモノへの興味など、
…は根っこのところの気分としては、近年の世界的な、原初回帰ムード、近代文明の弊害の指摘、古き良き時代への憧憬、失われ行くものをいと惜しむ感情、ネイティブなものへの関心の増加、人工的なものへの警戒心、田舎暮らしへの憧れ、などと同じところに根があるように思う。 現代社会が抱える閉塞感、価値観の多様化など、社会的、心理的なストレスから逃れるすべ、として意識してか無意識か、はわからないけれども、原初的なるものの中に、新たな道を見出そうとしているように思える。 「癒し」などという切り口も重要かもしれない。 例えばネイティブ・アメリカンや、アボリジニの文化への再評価、であるとか、日本での沖縄的なものや、アイヌ的なものへの礼賛、など、かつて周縁のものとして排除されようとしていたものへの再評価ということが、一斉に起こって来ているように感ずる。 そういったなかで、「ケルト的なもの」への関心が増しているのも、同じところから来るのだろう。 わかりやすいところでは、アイリッシュ・ミュージックへの関心や、ケルト音楽への関心の高まり、があるだろう。 「ケルト」の定義そのものは非常に難しいが、語源は古代ギリシャ語の「ケルトイ」=内陸の蛮族、が語源とされ、かつてはヨーロッパ大陸の広い地域を支配していた文化、及びその担い手としての「民族」だと考えられている。 紀元前2世紀以降、ローマに侵蝕され、紀元後5世紀にはアングロ・サクソンが侵入、さらにヴァイキングの侵略、ノルマン人の侵略によって、結果的にケルトの人々はヨーロッパの西の端の端に追い詰められる。 近代国家としてのイギリス(イングランド)やフランスも、それらの「蛮族」の教化、浄化のために、言語の使用や、民俗文化の禁止などを進めてきた。 現在、ケルト的なものが残っている地域は、ブリテン島のスコットランド、ウェールズ、コーンウォール地方、マン島など大ブリテン島西岸の島々、アイルランド、そして、大陸ではフランスのブルターニュ地方の一部、ということになるだろう。 しかし、そういう様々な迫害や、産業革命の発祥地に隣接し、社会生活上、利便性の高い英語を話す地域に取り囲まれている環境の中で、これらの辺境の地域に、少なからぬケルト諸語の話し手が現在でも残存し、ケルト文化を継承している、というのは奇跡的なことだろう。 今では、ウェールズ語やスコットランド・ゲール語、ブルトン語などは、保護、奨励され、何とか次世代に繋ごうと努力されている。 現在のケルト文化はキリスト教と密接に結びついているけれども、その中にキリスト教以前の妖精や精霊などを重んじる多神教的な要素を多く含んでいる点も興味深い。 例えばトールキンのえがく「指輪物語」の世界も、ケルト的な要素を多く含んでいる。 ケルトの血を引く人々が現存する一方で、ケルト以外の世界から、ケルトに魅了される人々も増えてきている。 「リヴァーダンス」が何故かしら、汎世界的に「魂」を揺さぶって、人々を惹きつける。 そのケルト的な原初的な精神の魅力に、感化される人は私を含めて多いようだ。 エンヤが音楽を担当したBBC(スコットランド・ウェールズ・アイルランド)制作のドキュメンタリー番組「The Celts 幻の民 ケルト人」はDVDになっているが、ケルトの歴史と現在を知る上で、大きな助けとなるだろう。 ![]() エンヤがこの番組のために書いた音楽は、後に彼女のデビューアルバムとなるのである。 |
2006年05月09日(火) 15:01
ネタバレ満載。未読の方は、まず本編をお読み下さい。
藤沢周平の短編集「冤罪」は、藤沢周平の創作活動のステージとしては、ごく初期にあたる1974年~1975年のほぼ一年の間に書かれた短編を集めたものである。 所収された作品はいずれも「武家もの」に属する作品である。 ![]() 1975年12月書かれた著者による「あとがき」でも触れているように、藤沢周平はバイオグラフィによれば、1972年に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞した後、これらの短編が書かれている1974年に藤沢周平は日本加工食品新聞を退職してサラリーマン生活を終え、執筆活動に専念することになる。 そういう時期の作品集である。 一般に藤沢周平の初期作品は「暗い色調」であるとされ、作者自身も、ある暗いロマンを吐露するしかなかった、と述懐していて、それが転機を迎えるのは、1976年の「竹光始末」や、1978年の「用心棒日月抄」あたりから、ユーモアをまじえた明るい色調を帯びてくる、と、諸々の解説、批評されているし、著者自身もエッセイなどでそう言っている。 確かに「暗殺の年輪」や「又蔵の火」所収の作品などは、怨念ともいうべき暗いトーンに支配され、主人公は悲劇的結末を迎える。 「ハッピーエンドは書けなかった」と藤沢周平自身も書いている通りである。 しかし、この「冤罪」を読み返して見ると(おそらく4読目か)、これらの1974年~1975年に書かれた9編の短編は、一般に世評上「転機」とされている、1976年「竹光始末」や1978年「用心棒日月抄」より以前に書かれた作品群であるが、十分にユーモアを備えた明るいエンターテインメント作品であるように思う。 なぜ、多くの評者や世評が、あるいは作者藤沢周平自身も、作風の「転機」を1976~1978年としたか、「冤罪」を読むと、いささか不思議な気がする。 9編は、 「証拠人」 「小説新潮」1974年6月号 「唆す」 「オール讀物」1974年7月号 「潮田伝五郎置文」 「小説現代」1974年10月号 「密夫の顔」 「問題小説」1974年11月号 「夜の城」 「問題小説」1975年4月号 「臍曲がり新左」 「オール讀物」1975年4月号 「一顆の瓜」 「別冊小説新潮」1975年夏季号 「十四人目の男」 「別冊小説新潮」1975年冬季号 「冤罪」 「小説現代」1975年6月号 …である。 これら9編の武家もの中で、舞台に設定されている藩をみてみると、 「証拠人」は場面設定を実在の酒井家の荘内藩に置いている。 荘内への転封後、間もない、鶴ケ岡城建築途中の荘内藩である。 「唆す」は主人公は江戸にいるが、追放されて浪人する前には「羽州海坂藩」にいたことになっている。 時代設定は幕末で、「海坂藩もの」としては、明瞭に時代背景を幕末に絞り込んだものは珍しいものではないだろうか。 「海坂藩」の名前の初出がどの作品になるのか、確認していないが、この作品かもしれない。 また、後の「海坂藩」は、とある「北国の小藩」としか、言及されないが、「羽州」と出羽国に所属していることを明確に書いているのは、この作品だけではないだろうか? もちろん、西は海に接し、南北東を山に限られている北国の領国というのは、普通に考えれば陸奥国ではなく、出羽国だろうとは思うのだが、文中に明確に「羽州海坂藩」と書かれているものは、他にはないのではないだろうか? 「潮田伝五郎置文」も「海坂藩」とされている。 道場の同門の友人宅に住まう身分違いの妙齢の佳人に密かな思いを寄せる、というプロットは、後の長編「風の果て」にも通じるものがある。 「密夫の顔」では藩名、城下の名前は触れられていないが、江戸との往来の距離感覚、職制と禄高などから、海坂藩と考えても良いのではないか、と想像される。 「夜の城」は強い印象を残すプロット設定だが、ここでは藩祖が天正の昔、隣国に攻め込んだ、とされていることから、この藩は戦国期からの地生えの大名家であり、「黒江藩」という名前を与えられており、荘内藩とも、海坂藩ともちょっと違った風合いになっている。 戦国の世に攻め入ったという累代宿怨の隣藩の名も「桑城藩」と名を与えられている。 架空の隣領の名前を明確に書いているものも、藤沢武家ものでは珍しい。 「臍曲がり新左」も主人公は、小田原攻め、朝鮮出兵、関ヶ原、2度の大坂の役に出陣した戦国往来の古武士であり、その価値観と太平の世との世代観ギャップが物語りの起伏を作っているので、典型的「海坂もの」とはちょっと違った背景になっている。 「一顆の瓜」も藩名は出てこないが、海坂藩と忖度される設定である。 「十四人目の男」さらに込み入った背景だ。 藩名は「粟野藩」とされ、寛永期に北隣の秋田藩の動きを監視すべく置かれた徳川譜代の藩とされているが、「隣藩の荘内藩と連携して」とあるように、実在の荘内藩、秋田藩も置かれている中に「粟野藩」は配置され、藩主家の姓も「粟野」と明示され、幕末の勤皇・佐幕を巡る藩内対立が背景にある一方で、話の縦糸の一本は大坂夏の陣にまで遡る仕掛けになっている。 奥羽越列藩同盟に荷担するか否か、で、荘内藩だけでなく、会津藩、米沢藩、仙台藩、天童藩などの実在の藩名も出てくる。 フィクションの藩で藩主家の姓が明示されている作品は藤沢作品では珍しいのではないだろうか。 「冤罪」も明示されていないが、海坂藩と考えても誤解のない設定である。 だが、現在のわれわれには、おなじみの「海坂藩」ではあるが、この時期の藤沢周平が、その後の創作活動を通じて、この「海坂藩」という架空の藩名を使い続ける、と確信していた、とは思われず、この時期の9編をあげて、藩名が書かれていないものを、「海坂藩だと思われる」と言ってみても意味の無いことではある。 一般に作風の「転機」前に属する時期と考えられている時期のこれらの作品だが、これらの短編の中でも特に「臍曲がり新左」、「一顆の瓜」に見られるユーモアの感覚は、明るいエンターテンメントとして不足のないものであり、また「冤罪」の筆運びも軽妙で明るい。 例えば、「一顆の瓜」の主人公と友人の会話や、クライマックスで本多相模が大目付・寺内八郎兵衛を呼ぶように言い「心配いらん。手は打ってある。八郎兵衛は塩鮭が大好物でな。先日屋敷に呼んで酒を飲ませ、塩鮭半尾を送った。彼は味方だ」、という、重大な藩の派閥抗争が塩鮭半尾によって支えられているおかしさ。 「冤罪」での主人公堀源次郎が道場で重藤年弥からヒロインについて聞く会話、 ・・・じつは白状するとな」 と重藤は頭を掻いた。 「表町で買い物をしているところを見かけて、あの家まで跟けて行ったことがある。あわよくば婿に入りこもうと思ってな」 みんなどっと笑った。いずれも部屋住みの身分で、そういう話には切実な関心がある。重藤の気持ちも難なく理解できるのである。 「しかし調べてみると十五石だ。五石を藩に貸してあるとすると十石の身代だ。そこで俺は諦めたよ」 またみんなが笑った。源次郎も一緒に笑ったが、油断ならないものだと思った。散歩の途中、眼を見かわして黙礼するなどという生ぬるいやり方では、遅れを取りかねない。 また、この「冤罪」の最後の4行などを見ても、ここでは、既に作者が十分にユーモアの要素を作品の重要な柱にしている。 明るいユーモアの要素は「用心棒日月抄」の相模屋や細谷源太夫とのやりとりで、初めて表に出てくるわけではないのである。 |
2006年05月08日(月) 14:37
うーむ。まさかのバファローズ戦3連敗。
・・・5位転落。 明日から甲子園でのタイガース戦から、交流戦突入だが、不安を残して交流戦に入る形となってしまった。 4/25~5/2まで6連勝してたのに、野球というのはわからないものですなあ。 何とか、交流戦で、昨年同様に盛り返して欲しいものだが、決め手がないですね。 |
2006年05月03日(水) 00:40
藤沢周平の作品のなかで、あまり読み返していないものを改めてピックアップして再読している。
「市塵」(上)(下)も、そういう意味では、初読の印象が地味だったこともあり、その後、再読していなかったものの一つである。 ![]() ![]() まず、主人公を新井白石としたことが、ユニークである。 藤沢作品のフィクションでない評伝小説の主人公としては、不思議な選定であると思う。 藤沢周平の評伝小説は、浮世絵師を題材にしたもの、歌人俳人を取り上げたもの、そして、荘内人、米沢人など山形県人を主人公に据えたもの、実在の剣豪を主人公にしたもの、があるが、この「市塵」の新井白石は、そういった、藤沢周平の数々の評伝小説の主人公の選定基準の中で、非常に異色の登場人物である。 もちろん、徳川綱吉、徳川家宣、徳川家継、徳川吉宗と続く、この時期は、将軍継嗣問題、幕府の諸政策の劇的転換、君側の寵臣の劇的な交代劇、と興味をそそられる時代ではある。 その時代の中で、新井白石の果たした役割は大きいのだが、この「市塵」は、単なる新井白石の「出世物語」「成功譚」ではない、というところが藤沢周平らしさだろうか。 新井白石を正面から捉えるなら、彼の活躍と栄達を活写することが王道だろうと思うが、藤沢周平は、白石の成した後世に著名な功績については、あえて、紙数を割かずに距離を置いて、淡々と書き進めている感がある。 むしろ、綱吉から家宣への継承、幼将軍家継の就任と死去、吉宗政治の開始、という時代の波浪の中で、間部詮房に牽引される形で、あたかも時代の潮の干満の中に身を浮かべる新井白石を等身大の「人間」として描こうとする意図があるように感ずる。 子供の病気と死去、愛弟子の零落、林大学頭との確執や、荻原重秀との関係、自分の愛弟子と信じていた室鳩巣からの痛烈な諫言、政治の世界を離れて市井の一介の学儒として著述に没頭したい、と思う一方で権力の魅力に惹かれてしまう自分、そして、全編を通じての通奏低音となる「瀉」の病。 これらに懊悩し、しばしば狼狽する。 高名な学者、立身出世者・新井白石ではなく、「人間」新井白石を書くところに、著者の意図はあったのだろう。 なぜ、藤沢周平は新井白石を取り上げたのか、という点について、改めて不思議さを感じた。 時代背景の妙もあり、白石の生涯を追うことは、この時代の幕府の置かれた状況を描くには、白石は、ほどよい「観察者」&「当事者」として好適な配置ではある。 表の政治家を敢えて主人公にしない、というところが、やはり藤沢文学の真骨頂なのか、とも思う。 |
2006年05月02日(火) 09:17
極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」が開廷して、明日で60年になるということで、今日の朝日新聞は、「東京裁判」を取り上げている。
第1面で、この度行ったアンケート調査を掲載している。 20代では「東京裁判知らぬ」が9割。 というのは、まあ、そんなもんか、と思ったが、40代でも「あったことも知らない」が20%も占めるとあって、いささか驚いた。 極東国際軍事裁判についての是非を論じることは、この稿の目的ではないが、少なくとも何が起きたのか、をできるだけ客観的に知ることは日本人として絶対に必要だと思う。 私はレーザーディスクで持っているのだが、米国防総省の記録フィルムを元編集されたドキュメンタリー映画「東京裁判」は、本物の東條英機らが出てる、という意味で、再現フィルムではない現実の重さがとてつもないパワーを持った作品である。 今ではDVDで廉価に入手することができる。 ![]() 極東軍事裁判を巡った映像作品ということでは、フランキー堺主演による、テレビドラマ「私は貝になりたい」も著名だが、やはり映画「東京裁判」の、俳優ではない本物が出てくるドキュメンタリーの重さにはかなわない。 ドキュメンタリー映画「東京裁判」の良いところは、このフィルムは極東軍事裁判について、小林監督他、制作者側の意図は努めてニュートラルな立場で記録されているということだろう。 「東京裁判」批判でも、「東京裁判」礼賛でもない。 われわれは裁判の実況を、ストレートに受け止めることができ、評価はわれわれに委ねられる。 ニュルンベルク裁判も含め、国際軍事法廷というものは、その拠って立つ根拠や、そもそも裁判が国際法的に合法なのか、という疑問はあるせよ、この裁判を通じることで、初めて世に明らかになった「事実」が存在していることも確かだし、「東京裁判」を否定する人々は、「では他にどういう決着方法があったか」という代替案を用意する必要があるだろう。 しかし、また一方で、極東軍事裁判で、A級戦争犯罪として処刑された人たちを靖国神社に合祀することの是非は、東京裁判の是非とは、別のテーブルで論議されるべき問題だろう。 彼らは戦死者なのか? という問題である。宗教法人・靖国神社の答えは「YES」である。 しかし、この問題が現在の対アジア外交に落としている影を見るとき、「東京裁判」の「いかがわしさ」を皆が知りながら、「手打ち」として、彼らA級戦犯に「スケープゴート」になってもらったのは確かだ、という視点に立つ必要がある。 自分たちが「スケープゴート」になることで、少なからず戦争遂行に積極的に関わった多くの「自分たち以外の日本国民(天皇含む)」を無事に無罪放免にすることができ、新生日本をわだかまりなく国際社会に再出発させることができる、という思いがA級戦犯として処刑された人々のせめてもの救いだったのではないか。 その意味では現在の「靖国」をめぐって、アジア外交でトラブルが生じているのは、「スケープゴート」としての役割をまっとうできていない、という結果になっている。 宗教法人「靖国神社」はA級戦犯の合祀については、かれらA級戦犯たちが、後世に憂いなきように、背負ってくれた「スケープゴート」としての役割をないがしろにしてしまうものであり、果たして彼らの本意だったろうか、と考えてしまう。 東京裁判が茶番だったとしても、A級戦犯の刑死は茶番でもなんでもなく、本当の死刑であり、彼らの(本意でなったかもしれない)死の重さを最大限に忖度するなら、「スケープゴート」に成りきらせてあげることこそが重要なのではないか。 |
2006年05月01日(月) 18:13
9連休なので、久々に部屋の掃除。
だいぶ、床面が見えてきました。 垂直に積み上げ直しただけ、という感もあるが、まあ、それでも足の踏み場がないよりは、だいぶマシになった、と思います。 |
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