日々の雑学 ●●●
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「新三河物語」(上)(中)(下)宮城谷昌光 著 読了
2011年10月12日(水) 21:53
宮城谷昌光の「新三河物語」(上)(中)(下)全3巻を読了した。


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まだ生きている作家による歴史小説で、近頃これほど一気に読めた作品は稀有だ。

宮城谷作品は、中国古代モノも一通りは読んでいるのだが、悲しい哉それらの題材の人物や時代にあまりに基礎知識がなく、それなりに面白く読んだ読後感はあるものの、のめりこむというような感じではなかった。

宮城谷作品の優れているところはいろいろあるけれども、印象的なのは練りに練られ、選びに選ばれた単語、文章だろう。
稚拙に感じるところが全くないので、安心して読める。

戦国歴史小説は、普通の人が読むであろうものはほとんど読んでいると思うが(津本陽を除く)、司馬作品のように論説調になる感じでもなく、劇画調にベタに無理くりドラマが展開するわけではない。

司馬遼太郎で言えば、徳川家康とその家臣団を描いた作品として「覇王の家」があるし、徳川家康モノとしては、空前絶後と思われる、全26巻の山岡荘八の「徳川家康」もある。

「新三河物語」も徳川家の勃興と家臣団の活躍を描いていることのは確かなのだが、視点は大久保忠世に代表される大久保一門の武将たちの生き様である。

「三河物語」というのは、ご存知のように、大久保彦左衛門忠教(ただたか)が書き残した「松平・徳川家」、そして「大久保一門」の戦績をまとめたものだが、宮城谷の「新三河物語」も大久保彦左衛門及び大久保一門から見た松平家徳川家勃興の描写になっている。

とは言っても前半は彦左衛門忠教はまだ生まれておらず、宗家当主の忠教かた見ると叔父に当たる大久保忠俊が 雨中に兵を率いるところから描写が始まり、次第に大久保忠世の次弟、大久保忠佐に主人公的な役割を担わせている。
大久保忠佐の人物的魅力が作品を引っ張る大きな力になっている。

通称を平助という彦左衛門忠教(彦左衛門は隠居名である)も、忠佐の視点から年の離れた幼い弟を評価する形で登場して来る。

戦国武将としての徳川家康の活躍期に大久保家の宗家当主格であったのは大久保忠世なわけだが、忠世の家は本来は傍系である。
その辺の経緯は本編で語られているので本編にゆずりたい。

大久保彦左衛門忠教(ただたか)は10人兄弟であり、長兄が大久保忠世であり、次兄が大久保忠佐、その他の兄弟も個性的な魅力で描かれている。

本家の「三河物語」同様、大久保一門の視点から見た歴史観であり、大久保家の家風や一族の武人を美化するところは美化している。
大久保一門に都合の悪い点は・・・誤魔化している。
徳川家の歴史をたどる上で、大久保一門に都合の悪い点は大きく捉えて3点ある。

1.家康の長男・松平岡崎三郎信康が問責された時に酒井忠次とともに大久保忠世が織田信長に弁訴に行くが、信康の擁護に失敗している点(と言うかあまり弁護しなかった)。

2.真田昌幸との2度の上田城攻防戦で主将格でありながら、徳川家の数ある戦績の中でも特筆すべき大敗北をしている点。

3・大久保長安事件への連座

の3点だ。

この3点の描き方は、あまりに大久保家に都合の良い書き方をし過ぎなのでは、と感じる人もいると思う。
信康切腹については、信康そのものが優れた人物ではなく、自ら招いた死であるかのような書き方をしているし、酒井忠次になすり付けている感もなくはない。
真田攻めに関しても、信康崇拝派の平岩親吉と鳥居元忠が大久保一門に反感を持っていて非協力だったことが敗因としている。
大久保長安に関しても、長安の不正そのものは歴史的に動かないと思うけれど、連座の適用が峻厳過ぎるのは本多正信と土井忠勝の陰謀である、という立場を取っている。

この立場は大久保忠教が「三河物語」で書いた見方を踏襲しているとも言える。
だからこその「新」三河物語なのだろう。

そもそも彦左衛門が「三河物語」を遺した意図というのは、松平家存亡の危機の時代から忠節を尽くし、多くの苦しい敗戦を含む、戦場での武勲をあげた家が、太平の世でないがしろにされ、文吏・能吏型の家臣が重用されていくことへの義憤として書かれた面があるので、本多正信への悪評・敵意などは、踏襲するのが正しい態度だとも言える。

大久保一門の武家としてのあり様を主眼として描いているので、桶狭間も本能寺の変も秀吉の中国大返しも、大久保家から見える風景以上のことは書いていない。
関ヶ原も大坂の陣も思い切って飛ばしてしまっているのは却って小気味良い。
大久保忠世一党は秀忠軍に属しているから、中仙道を通って関ヶ原には遅参するので、関ヶ原の様子がわかりようがないのである。

徳川家臣団の人物でさえも、石川数正の謀反も何処か他人事だし、本多忠勝も井伊直政も非常に遠景にいる。
本多正信が唯一やや絡みがあるか、という程度。

歴史にはいろいろな評価の仕方があって、家康をヒーローにも石田三成をヒーローにも描くことは可能なのであり、首尾一貫した適度なバイアスというのは歴史を書くには重要な要素だと思う。

真田攻防戦の描き方などは、池波正太郎の「真田太平記」と比較しつつ、各武将の進退の評価を見てみると全く真逆なので、そういう点も面白いのである。

また、中国のものでも、日本のものでも、歴史ものを読むときに大変なのは、たくさんんの人名なのだが、大久保家の一族は全員「忠」の字を諱名の通字にしているので、これを情報処理するのは確かに大変だ。

大久保彦左衛門忠教から見て、本家に当たるのは叔父の大久保五郎衛門忠俊<常源>で、その弟が大久保左衛門次郎忠次であり、さらに三弟が彦左衛門や忠世、忠佐兄弟の父である大久保平右衛門忠員(ただかず)。
で、兄弟が上から、
大久保七郎右衛門忠世(ただよ)
大久保治右衛門忠佐(ただすけ)
大久保大八郎忠包(ただかね)
大久保新蔵忠寄(ただより)
大久保勘七郎忠核(ただざね)
大久保彦十郎忠為(ただため)
大久保甚九郎忠長(ただなが)
大久保(平助)彦左衛門忠教(ただたか)
大久保弥太郎忠元(ただもと)
・・・
といて、おおぜいいる従兄弟たちも、甥たちも全部が大久保忠○である。

しかも、松平の譜代の家臣には「忠」の字を通字にしている家が他にも多く、酒井忠次の左衛門尉家もそうだし、本多平八郎忠勝の家もそうで、忠○と呼ばれる人物が数十人単位で出てくるのを仕分けながら読まなければならないのは、これは著者にはどうしようもなく不可避なことだ。

例えば「忠次は・・・」と書かれていた場合、それが酒井忠次のことなのか、彦左衛門の叔父の大久保忠次のことなのか、関東郡代の伊奈忠次のことなのかは、ある程度の予備知識と前後の関係から知るしかない。

しかも宮城谷昌光は、これは歴史モノを書くときに大事なことだが、諱名(いみな)を一人称で語らせることを絶対にしていない。

つまり、大久保忠教が兄忠世のことを語る場合「七郎右衛門の兄・七郎の兄」と呼ぶし、次兄忠佐のことは「治右の兄」と呼ぶ。
忠佐も弟たちには、彦十郎、甚九郎、平助と、通称で話しかける。
それが、忠為、忠長、忠教のことである、というのは読者の脳内で変換していかなければならない。

諱名(いみな)というのは実名だけれども、呼びかけの名前としては遠慮して諱むから諱名なのであって、伊達政宗に向かって「政宗どの」とか、前田利家に向かって「利家どの」とか話しかけるのはあり得ないのだ。
わかりやすいけれど、あり得ないのである。
伊達政宗であれば、時期によって違うけれど「藤十郎どの」「陸奥守どの」「陸奥中納言どの」であるし、前田利家であれば呼び捨てでも「又左」であり、「又左衛門どの」「筑前守」である時期も長いし、「加賀大納言どの」になっていく。

ここは私は非常に拘りたいところで、安易に諱名で呼び合っている歴史小説に出くわすと、それだけでがっくりする。

宮城谷氏は通称と諱名の使い分けが徹底していて、実にリアリティがあり、そのことで人物が生き生きとしてくるのである。

本格的な噛み応えのある戦国モノが読みたいと思っている方には、実にぴったりかつ新鮮な味わいを残す好編だと思う。
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