日々の雑学 ●●●
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初代「ミスター・オリオンズ」榎本喜八氏の訃報
2012年03月29日(木) 23:10
千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルアカウントが、本日伝えるところによると、

当球団OB榎本喜八氏が3月14日(水)、大腸癌のため、都内の病院にて亡くなられました。葬儀はご家族にて3月17日、18日に行われました。故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。

享年は75歳とのことで、野村克也の一つ年下であり、長嶋茂雄と同年であるから、榎本喜八の残した成績だけから考えれば、静か過ぎる最期だ。

川上哲治、山内一弘に次いで、3番目に2000本安打を達成した人である。
31歳229日での2000安打到達は日本のプロ野球で最速で、日米通算でイチローが30歳212日で2000安打を達成した以外、抜かれておらず、NPBとしては最速の2000本安打達成打者である。

これは、氏の性格というか、資質に関する問題でもあるので、難しい話ではあるが、引退後一度もユニフォームを着ることなく、球界から距離を置いていた。

名球会にも一度も出席しなかったので、退会扱いになっているなど、現役時代の華々しい活躍と、引退後のギャップが激しかった。

通算2314安打を残したのに野球殿堂入りをしていない。

榎本喜八は、中野区上鷺宮の農家の家に生まれ、極貧の少年時代を過ごす。

早稲田実業時代は、都大会ではめちゃくちゃ打つが、全国大会に進むと全く打てないため、プロ野球界から注目される選手ではなかった。

早稲田実業の先輩の毎日オリオンズの荒川博に頼み込み、オリオンズのテストを受けさせてもらったところ、当時の監督・別当薫、主力選手の西本幸雄を仰天させる。
別当薫「高校を出たばかりにして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」

高卒ルーキーで、開幕戦から5番打者でスタメン入り、6月からは3番に定着。
ルーキーイヤーからオールスターにも出場。
この年、出塁率は山内一弘と中西太に次いでリーグ3位の.414を記録した。
139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録。

Wikiからいくつか引用してみる。

野村克也「王のほうが、よほど扱いやすかった。あれほどに恐ろしい打者には、後にも先にもお目にかかったことがない。」、「捕手野村として、一番対戦したくなかった打者」

稲尾和久「私はヒジへの負担が大きかったのでフォークボールを投げなかったんですが、榎本さんだけには投げざるを得なかった。」

西本幸雄「今までに見たバッターの中で一番正確なバッターは誰かと聞かれれば、躊躇なく榎本と言うな。パ・リーグでは野村克也や張本勲が、榎本よりいい成績を残しているけれど」

杉浦忠「投げる球がなかった」、「昭和30年代を代表するバッターを挙げろと言われれば、榎本喜八、張本勲、山内一弘、長嶋茂雄、王貞治の名前を挙げます」

川上哲治「“打撃の神様”の称号は自分ではなく、榎本が最も相応しい」、「長嶋(茂雄)を超える唯一の天才」

荒川博「バッターとしての完成度は王より榎本の方が上」

スポーツジャーナリストの二宮清純が、通算1000イニング以上投げた往年の投手たちへ「最強打者は?」という質問をぶつけたところ、最も多く返ってきた答えは「榎本喜八」の名であった。
榎本と同時代に生きたパ・リーグの投手たちが張本勲・野村克也・中西太などの上に榎本の存在を位置づけようとすることが不思議だったという。二宮は榎本の残した数字を見て「史上最強と呼ぶには物足りない」と判断したものの、実際に古いテープを取り寄せて榎本の打撃を繰り返し見ているうちに、「その偉大さを理解すると同時に、ピッチャーが榎本を恐れる理由も理解できた」という旨のことを述べており、「何が凄いかといって、榎本の打球はミリ単位も左右にブレないのだ。順回転のスピンで猛禽のように野手を襲うのだ。順回転のスピンというのは、すなわち寸分の狂いもなくピッチャーが投じたボールを打ち返している証拠であり、ピッチャーにしてみれば何一つとして言い訳が許されない。さながら一太刀で眉間を割られたようなものだろう」と評価している。

単打タイプの左打者だったけれど、徹底したプルヒッターで、内野安打やバントヒットはほとんどなかったという。
右翼スタンドや右中間スタンドへの突き刺さるような榎本の本塁打は、負傷者を生み出したことがあり、打球を取ろうとして避けきれず、顔にボールを受けて昏倒した観客までいたという。

守備は下手で、一塁のポジションを榎本に譲ることにならざるを得ない西本幸雄が必死の指導をした。
記録上の失策は少ないのだが、村田兆治が「榎本さんに送球するときは、ちょっと届かないところには絶対取りに行ってくれないので困った」と述懐しているように、無理をしないので、失策が少なかった面もあるだろう。

榎本喜八のことを語る上で、「奇行」のことは避けるわけには行かないだろう。

結局、これだけの偉大な記録を残し「王、長嶋以上」と言われた人が、現役引退後、一度も野球に関わる仕事につくことなく、亡くなったというのも、そのこととは無縁とは思われないからだ。

榎本喜八という人は、高校時代の事跡からもわかるように極端に「ナーバス」な人だった。

修験道のように野球に打ち込み、仲間と酒を飲みにいくこともなく、煙草もやらず、荒川博にキャバレーに連れて行かれると「荒川さん、こんな不潔なところにはいられません。帰ります」と言って帰ってしまったという。

病的なところは、後から振り返れば高校時代から既にあったと述懐する人もいるわけだが、特に1960年オフに大毎のオーナーが変り、毎日オリオンズの主力選手をどんどんトレードで放出してしまい、気の知れた理解者が周囲にいなくなってしまうあたりからおかしくなってきたのだと思う。
人間関係が上手でない榎本にチームリーダー的な役割を負わされ苦悩する。

1965年あたりから「奇行」が表面化し、ひたすらベンチで座禅をする、ベンチや自宅の物を壊す、ガラスを割る、果ては猟銃を持って家に立て篭もるなどの数々の事件を起こす。

1972年最後の年にロッテ・オリオンズから西鉄ライオンズに出されるが、当時の西鉄の監督をしていた稲尾によれば「(西鉄時代の)榎本さんとは会話すら出来ない状態だった」とのことで、その年を最後に、引退試合も行われず、報道もほとんどされないまま、消えるように引退したという。

引退後も打撃コーチに就任することを目指した体作りとして、自宅の上鷺宮から千住の東京スタジアムの跡地まで往復の、42キロのランニングを1日おきに行い、このランニングは70歳を過ぎてもときどき行っていたということだが、コーチ、解説者などへのオファーは一切ないままに、没したのである。

ある道を異常なまでに究めた人というのは、やはりどこかバランスを欠く面があることが多いと思うし、ここでピート・ローズや、マラドーナの話と比べても仕方がないとは思うが、精神的な面というのは、肉体的な訓練と違って、なかなか克服しにくいように思う。

せめて今日、ここで偉大なるオリオンズOB・榎本喜八について、少し触れることで、故人を追悼し、冥福を祈りたい。

そして出来得れば、死後でも良いので殿堂入りを願う。

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