日々の雑学 ●●●
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第十六代徳川家達(いえさと) 樋口雄彦 著
2012年10月17日(水) 23:46
祥伝社新書から出た「第十六代徳川家達(いえさと)-その後の徳川家と近代日本」樋口雄彦 著を読む。

徳川家達という人は、その存在自体は「十六代様」としてよく知られ、昭和まで長命したし、貴族院議長としても長く公務を務めた人なのだが、明治以降の隠棲者としての徳川慶喜暮らしぶりと比べると極端に著述が少ない。

徳川慶喜家の人は末裔の方々自身も筆を取られている方が多いのに対して、徳川宗家である、徳川家達、家正父子に関しては、正式な評伝も、読み物の類もほとんどないのである。

最後の将軍徳川慶喜は、基本的には明治以降は爵位はあるものの、世捨て人、趣味人として余生を過ごすに過ぎないのだが、徳川宗家十六代を継いだ徳川家達は、明治政府の要職を務め、英国留学経験を生かして、ワシントン軍縮会議に全権大使として、海軍大臣加藤友三郎、駐米大使幣原喜重郎、とともに徳川家達も派遣されている。

5期31年に渡って貴族院議長に推され、一度は内閣総理大臣として組閣の大命が下るが、固辞している。

常に大日本帝国政府の政治の表舞台にあった人であり、元殿様としてブラブラしていたわけではない。

ワシントン軍縮会議で、5:5:3の海軍戦力比率を決めてきた本人であるし、英語にも堪能で、親英米派だった徳川家達は、暗殺の対象としてもリストアップされていた。

それにしては、徳川家達に関しての評伝は巷間少なすぎるように思える中でのこの新書の発売であった。

明治後の徳川慶喜の事跡が比較的きちんと整理されているのに比べ、徳川家達の事跡が整理されていないのは、亡くなったのが昭和15年であり、伝記編纂のための委員会が設立されたのだが、戦局の激化で昭和20年5月に、伝記編纂の事業が一時中止されてしまった、ということも大きく影響している。

戦後は華族制度そのものを否定する史観に大きく振れてしまったこともあって、華族制度の筆頭にいた、徳川家達を顕彰するムードではなくなってしまったのだろう。

この新書も、若い頃の家達評は勝海舟の回想によったり、家達本人や、徳川宗家の身内、使用人本人が書き残した「一次資料」に、当たれていない、という慙愧をあとがきで述べている。

あくまで徳川家達研究の端緒になれば、ということで、書いている本書である。

戦前の華族制度の、公、侯、伯、子、男という爵位の最高位の公爵になれたのは、近衛、一条、九条、鷹司、二条のいわゆる「五摂家」、維新の功労により、島津、毛利、三条。

徳川家達の継いだ徳川宗家は、山内家や鍋島家でもなれなかった、島津、毛利と並ぶ公爵に叙せられいる。

後に徳川慶喜も許されたのち、慶喜分家も公爵家となっているが、前政権の親玉だった徳川家は、明治維新政府でも必ずしも冷や飯を食わされていたわけではない。

徳川家達が慶喜に対して、微妙な感情を持っていたことも興味深い。
慶喜も長命した人なので、親戚として、養父子としての2人の付き合いは結構長きに渡るのだが、家達には慶喜に対して、微妙なしこりがあったようである。

そして、徳川家達が、5期にもわたって、貴族院議長に推されたというのは、もちろん家柄としての抑えが効くという思惑もあるのだが、全くの無能人でもなかったことの証左でもある。

ほとんどの「元殿様」華族が、家産の運用と趣味に明け暮れている中、徳川家達ほど自分で働いた「元殿様」は珍しいのではなかろうか。

徳川宗家は、徳川家達の後、子の家正に継がれ、家正の子家英は20代で没してしまい、会津松平家から養子に入った徳川恒孝(つねなり)氏が、現在18代目当主である。
徳川恒孝氏は長く日本郵船に勤められて退職し、恒孝氏のご子息の19代となる徳川家広氏も経済評論家として活躍中である。

徳川家達を通じて見る近代日本は、ちょうど維新瓦解から、太平洋戦争開戦前夜までをカバーしており、徳川宗家の数奇な変転は非常に教務深く読んだ。

惜しむらくは、日記などの一次資料が戦災を免れて一部は残っているらしいのだが、専門家による体系的な研究が行われていないことだ。

徳川家達は、死に当たって、大勲位菊花大綬章、従一位を送られている。

大勲位は、皇族を除けば、臣下のものは、その人の家柄や門地に関係なく、生前の本人の国家への貢献に対して送られるもので、伊藤博文、山縣有朋、大隈重信ら明治の元勲たちや、山本五十六など戦功のあった人に送られている。
島津久光には贈られているけれども、久光は藩主だったことはない人だから、元藩主本人で大勲位を贈られたのは徳川家達だけではなかろうか?
毛利元徳公爵も島津忠義公爵も、従一位は贈られているが、大勲位は贈られていない。

徳川家達への大勲位の追贈は、決して徳川家という家柄を考慮したものではなく、家達個人の生前の国家への貢献に対する顕彰なのである。

もっと研究されても良い徳川宗家十六代徳川家達である。


第十六代徳川家達――その後の徳川家と近代日本(祥伝社新書296)第十六代徳川家達――その後の徳川家と近代日本(祥伝社新書296)
(2012/10/01)
樋口 雄彦

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微妙な関係だった家達と慶喜
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