日々の雑学 ●●●
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大岡越前守忠相のこと
2013年06月10日(月) 23:54
民放での時代劇が全滅し、もうそういう時代ではなくなったかと思っている昨今だが、「大岡越前」がNHK-BSで復活して話題になっている。

テーマ音楽もTBS時代そのままに、加藤剛「大岡越前」の雰囲気をそのまま踏襲し、おおむね好評を得ているようだ。

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加藤剛がやっていた大岡越前を東山紀之、
竹脇無我がやっていた榊原伊織を勝村政信、
というキャスティングも、TBS時代の雰囲気を踏襲したキャスティングと言って良いだろう。

ドラマのことはここではさておき、史実の大岡越前守忠相のことについて書いてみたい。

大岡忠相という人は江戸徳川体勢を通じても、非常に特殊な人物だ。
身分と家格が厳格に固定されており、戦場での功績も挙げられないこの時代にあって、平時の役職の功績を認められて、旗本から大名に出世した、江戸時代通じて、ただ一人の人物なのだ。

大名とは1万石以上の領地を持つものを言い、1万石に満たなければ旗本である。

戦場での功績がなくなった家光以降の時代に、成り上がった大名というのは、他にもいるにはいるのだが、将軍の実母の縁者や、将軍の乳母の縁者、将軍の幼少時や世継ぎ時代に身の回りの世話をした側近、という縁故での成り上がった人物ばかりだ。

平和時の実際の役職の功績で、旗本から大名に取り上げられたのは、大岡忠相一人しかいないし、忠相の三河西大平藩しかない。

大岡忠相は1700石の旗本・大岡忠高の四男として生まれ、一族の旗本、1920石の旗本・大岡忠真の養子となる。

大岡家は、家康の祖父松平広忠の時代に大岡忠勝が仕えたことに始まり、その子大岡忠政には4人の男子、忠俊、忠行、忠世、忠吉があったが、長男の忠俊は関ヶ原で、次男の忠行は大坂の陣でそれぞれ戦死してしまう。
三男の忠世の長男忠種が宗家として忠行の家督を継ぎ、忠世自身、忠吉の3家が旗本として江戸時代に入る。

大岡忠相の生まれたのは、大岡忠吉家で、養子に入った家は大岡忠世家であり、大岡忠種家は継嗣なく絶えていたので、この時代には大岡忠世家が宗家となっていた。
つまり忠相は分家4男から大岡家本家を継いだ形になっている。

徳川綱吉の時代に御書院番として役につき、徒士頭、使番、目付となり、徳川家宣の時代に山田奉行に就任し能登守に叙任している。
この山田奉行時代に、伊勢宇治山田の幕府領と紀伊藩領との境界争いがあって、紀伊藩の関係者に名が知れ、紀伊藩の部屋住みだった徳川吉宗の耳にも、大岡忠相の名が知れたものと思われる。

徳川吉宗が8代将軍になると、1716年普請奉行を命ぜられ、さらに翌年1717年に江戸南町奉行に。

先任の江戸中町奉行に坪内定鑑(さだかね)がおり、坪内の名乗りが「能登守」であったために、先輩と重なる「能登守」を遠慮し「越前守」に改める。
坪内定鑑が能登守でなかったら、ドラマのタイトルは「大岡越前」ではなく「大岡能登」になっていたわけだ。

後は比較的有名な事跡だが、吉宗のいわゆる享保の改革のうち、江戸の都市政策の部分を担当し、目安箱の設置や、小石川養生所の設置などに尽力。

江戸町奉行としての功績を認められ、武蔵・上総のうちで2000石加増されて、3920石となる。

さらに、1736年、本来は大名が努める寺社奉行に就任し、さらに下野・上野のうちに2000石加増されて、5290石。
通例では、大名役である寺社奉行は奏者番を兼任するのだが、格式は「万石格」とされたものの、大名でなかった忠相は、奏者番は兼任していない。
このため、同役たちから軽んじられ、苦労したようだ。

1748年には、三河のうちに不足分の4080石を加増されて、都合一万石ジャストとなり、晴れて大名に列する。
藩庁の所在地は、最後に加増された三河のうちの西大平に定めたので、西大平藩となるが、大岡忠相自身は、西大平に入国することなく亡くなっている。

旗本が勤める奉行職で、特筆すべき功績を挙げた人物は江戸期を通じて何人もいるのだが、将軍に個人的な縁がない人者が、表の役職の功績で、大名に昇格したのは、後にも先にも大岡忠相一人きりである。

家康の関東入国にあたって、大岡家が最初にもらった領地は相模国高座郡のうち2村、今の茅ヶ崎市内であり、この領地はその後、武蔵、上総、下野、上野、三河と領地を加増されていくが、忠相以降の時代に付け替えられた領地もあるのだが、相模高座郡の領地は、幕末まで西大平藩大岡家の領地であり続けた。

1751年6月の吉宗の葬儀が最後の公務となり、このとき既に忠相自身体調が優れず、同年の11月に寺社奉行を辞して自宅療養したが、翌月の12月に亡くなっている。

そのため、大岡家の菩提寺は、高座郡堤村(現在の茅ヶ崎市堤)の窓月山浄見寺にあり、大岡忠相もそこに葬られている。

吉宗の子、9代将軍家重は、言語が不明瞭で、家重の小姓を勤めた大岡忠光だけが、家重の言葉を聞き取れた、というのは有名な話だが、大岡忠光の家は大岡忠吉家の300石の旗本。

将軍が幼い頃から近侍し、家重の言葉を唯一理解できたため、その側近として異例の出世を遂げて、1万石の大名に取り上げられ、若年寄も勤め、さらに5000石加増されて側用人となり、5000石加増され、計2万石となり、武蔵岩槻藩主となる。

大岡忠光が尋常ならざる出世をしていく過程を、実家が大岡忠吉家である親戚として忠相も途中までは見ている。
忠相が亡くなる1751年に、ちょうど大岡忠光は1万石を得て大名となっているのである。

結果的には宗家を石高では上回ることになった大岡忠光家だが、宗家は忠相の三河西大平藩の大岡家である。

大岡忠相没後すぐの頃から、虚実取り混ぜたいわゆる「大岡政談」は講釈の演目になり、幕末から明治頃には歌舞伎の演目になって定着。

良い施政者もいるという庶民の夢を託す形で、生前から比較的善政の施政者として名が売れていた大岡忠相に庶民の理想の施政者、正義の味方像を乗せていく形となっている。

記録に残る文書は、町奉行としての政務日記である『大岡忠相日記』がほとんど唯一のもので、そこには「大岡政談」の証拠となるような記述はないのだが、町火消しや、小石川養生所の設立など、わかりやすい事績があったので、もてはやされるようになったようだ。

茅ヶ崎市では、4月末に現在も大岡越前祭を行っており、大岡家の御当主は、オープンカーに乗ってパレードに加わる。

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