日々の雑学 ●●●
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安国寺恵瓊のこと
2014年07月20日(日) 23:57
大河ドラマもクライマックスと言って良い、中国大返し。

安国寺恵瓊は非常に重要な役割を果たしてしまうことになるわけだが、1582年の本能寺の変の9年も前の1573年に毛利家重臣に当てた中央政界の分析報告の書状で

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」

高ころびにあおのけに転ぶ、と変事による失墜と、羽柴秀吉の時代の到来を予見している逸話が有名である。

戦国史を彩る欠かせない人物だ。

この時には、羽柴秀吉時代の到来を予見しながら、関ヶ原の時には親徳川派の吉川広家と対立して、毛利本家を石田三成方に担ぎあげる主役を果たし、結果的に毛利家没落のキーマンにもなって、石田三成、小西行長とともに、京都六条河原で梟首され、西軍主犯格3人の中に入ることになるのも、歴史の皮肉なところだ。

関ヶ原時の安国寺恵瓊の心情は、徳川家康憎しというよりも、目の前の吉川広家憎しという近視眼的な心情だろうと思われる。

中国大返し時の安国寺恵瓊は、毛利家の中では、まず親小早川隆景であり、小早川隆景が毛利家の中で最も親羽柴秀吉派であるがゆえに、中国大返しを実現する立役者になる。

毛利家の場合、外交は僧である安国寺恵瓊が担当しているわけだが、この時期、地方勢力の外交担当者は、中央政権の為政者と接する機会が多いだけに、徳川臣下でも、酒井忠次の信長に対する関係、石川数正の秀吉に対する関係、北条家にあっては北条氏規、時代は少し下がるが上杉家では藤田信吉など、中央政権との外交担当者が一番相手の強さがわかり自軍の限界もわかるので、どうしても自家の弱さ相手の強さを語る立場にならざるを得ず、自家内おける立場が微妙になる。
石川数正は結局逃亡して秀吉に寝返ったし、藤田信吉も上杉家内での徳川内通説に耐えられず、心ならずも徳川に奔ったとも言える。
北条氏規は北条家の中では最後まで対秀吉恭順を主張するが、小田原征伐となってしまって韮山城に籠城して戦う。

結局、外交を担当するものが、一番世間を見ることになるのは仕方がないところだ。

秀吉の天下取りを背後から支える形になる安国寺恵瓊だが、この時期は冴えていたし、小早川隆景とのタッグも毛利家の中で非常に上手く作用していたのだろう。

関ヶ原の3年前、秀吉の死の1年前の小早川隆景の死は、安国寺恵瓊の毛利家内の立場を微妙なものにしただろうし、吉川広家にしても、叔父小早川隆景の死は毛利両川体制は自分こそが担わねばならないという自負に繋がってくるものだろう。

毛利元就は遺言で
「天下が乱れても、輝元は差し出して軍事に関与してはならない。ただ自分の領国を固く守って失わない謀をするがよい。なぜならば輝元には天下を保つべき器量が無い。もし身の程をわきまえず、天下の騒乱の謀に加わるか、自分の領土の外への野望を抱くなら、きっと所有している国を失い、その身も危うくなるであろう」
と予言しているわけだが、安国寺恵瓊はこの元就の遺言を破って、輝元を西軍総大将に担ぎ上げることで、毛利家を滅亡の間際に追いやり、首をさらされることになる。

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安国寺恵瓊が再建した広島市内の安芸安国寺不動院金堂は、原爆で屋根の一部が飛び柱が1本折れたが、耐えて国宝となっている
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